史学雑誌
Online ISSN : 2424-2616
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125 巻 , 11 号
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  • 2016 年 125 巻 11 号 p. Cover1-
    発行日: 2016年
    公開日: 2018/01/09
    ジャーナル フリー
  • 藤波 伸嘉
    2016 年 125 巻 11 号 p. 1-36
    発行日: 2016年
    公開日: 2018/01/28
    ジャーナル フリー
    一九〇一年、列強六か国による仲裁の結果としてオスマン・ギリシア領事協定が締結された。本協定とその締結に至る過程は、カピチュレーション、干渉、仲裁といった、「長い一九世紀」の国際法思想を考える上で鍵となる要素を含んでいる。本稿は、ニコラス・ポリティス、ヨルゴス・ストレイト、ハサン・フェフミ、イブラヒム・ハックの四名の著述を素材として、オスマン・ギリシア双方の国際法学史の文脈から本協定を考察することで、その歴史的な意義を明らかにしようとする。双方の主張の懸隔はカピチュレーションの位置付けに、換言すれば、オスマン帝国の差別的待遇は国際法の原則なのか例外なのかという点に収斂した。ギリシア側にとって、「キリスト教国」は「野蛮」な国家を「例外的」に扱うというのが「ヨーロッパ公法」の原則であり、従って、「文明国」として列強諸国と平等なギリシアは当然にカピチュレーションを享受すべきだった。これに対しオスマン側は、「完全な平等」こそ「国際法の一般原則」であり、カピチュレーションはそれに反する「例外的な状況」だと批判した。だからこそオスマン側は、この原則に反してカピチュレーションの保持に努める列強の態度を批判しつつも、国際法そのものの意義や進歩を認める「リベラル」な態度を示していた。ところが列強諸国は、正に本協定がカピチュレーションという制度の原則に関わるが故に、その先例から自らも裨益すべく、ギリシア寄りの裁定を下すことになる。こうした各当事者の立場からは、「世俗化」した「文明国基準」の下、ヨーロッパの枠を超えて「普遍化」したというその自己認識にも拘らず、西欧キリスト教徒主導の「長い一九世紀」の国際法思想が、その実は如何にキリスト教中心主義的であったかが改めて浮かび上がってくる。
  • 中村 博司
    2016 年 125 巻 11 号 p. 40-64
    発行日: 2016年
    公開日: 2018/01/28
    ジャーナル フリー
    本稿は、内田九州男が1988・89年に相次いで発表した、羽柴(豊臣)秀吉による「大坂遷都構想」をめぐる一連の論考を再検討することを通じて、羽柴政権と当該期朝廷との関係性、ひいては秀吉の政権構想を明らかにしようとするものである。 天正11年(1583)4月の賤ヶ岳合戦に勝利して織田信長の後継者たる地位を獲得した秀吉は、間もなく大坂に新たな居城構築を始める(大坂築城工事)が、内田は一連の論文を通じて「秀吉はこれと並行して大坂遷都を断行し、そのうえで自らが将軍となって大坂に幕府を開くという構想を持っていた。しかし、朝廷の招致に失敗したために将軍任官も大坂幕府開設も頓挫し、止む無く秀吉は関白となって同14年に関白公邸としての聚楽第を京都に構築することになる」としたのである。 この大坂遷都論は早くから注目され、現在でもなお多くの研究者が支持しているが、そこには自ら検証したうえでのものはない。その一方、羽柴政権と朝廷との関係性を取り扱った論文・著書等において、内田の論文は等閑視されるという状況も存在する。これは「大坂遷都構想」および将軍任官・大坂幕府開設というテーマが、羽柴政権と当該期朝廷との関係性について考察する上での最重要課題の一つであるのみならず、中近世移行期における天皇制の在り方にもかかわる論点であることを考えると誠に奇妙な状況と言わざるを得ない。しかもそれが今日まで四半世紀という長年の間、実証的な検証が行なわれることなく、いわば両論並立のような状況のままで推移してきたことは、長年このテーマに関心を抱いてきた者として誠に残念なことでもあった。 そこで、改めて大坂遷都論にかかわる根拠史料の再吟味を通じて検討したところ、大坂遷都、将軍任官、大坂開幕のことごとくがなり立たず、「大坂遷都論」は総体として成立しないことが明らかとなった。 その結果を踏まえ、大坂遷都論の評価の上に立って秀吉の関白政権樹立に至る構想を明らかにしてきた横田冬彦の仕事を俎上に乗せて検討したところ、秀吉が大坂遷都を断念した理由が必ずしも明確でないことに加え、断念の最大の理由とする小牧長久手合戦の敗戦についても、そうした評価は早計で、むしろ長引く小牧長久手の講和を探るなかで、秀吉の視野に新たな政権構想として公武の頂点に立つ関白職を獲得するという方針が入ってきたとし、そういう積極的な評価こそ妥当とした。そして、こうした一連の経過のなかに大坂遷都構想とその断念という事象を入れる歴史的必然性は無いものと結論付けた。
  • 2016 年 125 巻 11 号 p. Cover2-
    発行日: 2016年
    公開日: 2018/01/09
    ジャーナル フリー
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