史学雑誌
Online ISSN : 2424-2616
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125 巻 , 2 号
選択された号の論文の5件中1~5を表示しています
  • 2016 年 125 巻 2 号 p. cover1-
    発行日: 2016年
    公開日: 2018/10/05
    ジャーナル フリー
  • 2016 年 125 巻 2 号 p. cover2-
    発行日: 2016年
    公開日: 2018/10/05
    ジャーナル フリー
  • 空 由佳子
    2016 年 125 巻 2 号 p. 1-38
    発行日: 2016年
    公開日: 2018/10/05
    ジャーナル フリー
    旧体制下フランスでは、絶対王政のもとで王国の一元的な統治を進める王権が都市の自治への介入を強め、ルイ十四世期には各都市に総合救貧院の設立が命じられ物乞いの監禁による社会秩序の維持がはかられたことが知られている。従来は、こうした救貧の中央集権化、世俗化の側面ばかりが歴史家の関心を集めてきたが、本稿は、地方の主都ボルドーにおいてカトリック改革の影響下に慈善を行っていたエリート層の動向に注目し、救貧を切り口に絶対王政期における地方統治の一端を解明しようとした。
    ボルドーのエリートの救貧院への関与について検討することで明らかになったのは、地方の主導は失われておらず、救貧の内容も、カトリック改革の波を受けて宗教的使命が強く、また王権の意に反して地域の必要に即した独自性が確保されていたことである。十七世紀後半に王権の命令を受けて地方の主要都市で実施された物乞いの監禁は間もなく破綻し、エリート層は救貧の主眼を物乞いの抑圧から捨て子や労働不能貧民の救済へと変更していく。このように地方の救貧の自律性が維持されたのは、カトリック改革により信仰を深めたエリート個々人が、死後の霊的救済や都市の秩序維持のために、慈善家として救貧院の創設や財政支援のために財産の一部を喜捨し、救貧院理事としてカトリシズムによる貧者の救済・教化といった宗教活動を強化したがゆえであった。
    このように独自の救貧体制を持つボルドーでは、国際貿易の発展により商人と貴族が融合して新エリート層が形成されつつあり、彼らのうち少数が救貧院管理に参与できた。理事たちは、能力、財産、時間を費やして貧困層統治に取り組み、またその功績がさらなる社会的上昇への道も開き、少数エリートの寡頭支配体制がより一層強化されていった。
    こうして、富と権力に伴う慈善の義務を遂行し、都市の秩序維持を担うエリートの活動によって、地域の社会関係が維持されたのである。
  • 田中 一輝
    2016 年 125 巻 2 号 p. 39-60
    発行日: 2016年
    公開日: 2018/10/05
    ジャーナル フリー
    従来、西晋末の永嘉の乱については、五胡十六国史・北魏前史の観点から研究が進められてきたが、五胡諸族の主体的な発言・行動に注目した研究が多く、当時彼らと戦っていた晋朝系勢力との角逐を踏まえ、彼らの行動を相対的に把握するという視点に乏しかった。本稿では、五胡と晋朝系勢力の相克の過程を、厳密な編年と史料批判により復元し、永嘉の乱の実像を解明することを目指した。
    西晋と戦った劉淵・石勒らは、乱の初期においては晋朝系勢力に圧倒されており、とりわけ西晋の并州刺史劉琨は、南方の劉淵(漢)を終始圧迫し続けていた。劉淵は劉琨の圧力に押される形で南方への進出(遷都)を行わなければならなくなったが、それを継続すればいずれ西晋の首都洛陽にぶつかることが避けられなくなった際に、漢の皇帝を自称し、西晋打倒の姿勢を最終的に明確化し、洛陽に進攻した。しかし折から洛陽に帰還した東海王越に撃破され、劉淵は死去してしまい、西晋側はこれが契機となって劉琨―東海王越による対漢挟撃戦略がはからずも形成される。以後の漢はこの挟撃戦略の克服が課題となったが、このときより晋朝系勢力の東海王越からの離反などの動揺が続き、また東海王越の洛陽からの出鎮・死去など、洛陽からの戦力流出が続出したため、挟撃戦略は弱体化し、永嘉5年(311年)に漢の攻撃により、洛陽が陥落した。北方の劉琨も漢の攻撃により撃破され、挟撃戦略は破綻することとなった。
    以上の経緯から、永嘉の乱は必ずしも劉淵ら胡族の主体的な戦略や、西晋に対する一貫した優位により進んだのではなく、自勢力内外の軍事的・政治的環境に左右された結果であったことが判明した。
  • 池田 勇太
    2016 年 125 巻 2 号 p. 61-79
    発行日: 2016年
    公開日: 2018/10/05
    ジャーナル フリー
    東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター原資料部が所蔵する「安場保和関係文書」マイクロフィルム中にある「政体」と題される史料は、政体書の草案であると考えられる。慶応四年三月に起草され、執筆者は副島種臣と推定される。ただし、なぜ安場家文書中にこの史料があるのかは不明である。本稿では政体書作成の経緯を確認したのち、他の草案や政体書などとの条文比較を行い、本史料が政体書の草案であることを論じた。
    本史料からは、明治政府がその最初の段階において、西洋の立憲制を参照しながら国民規模の政治参加にもとづく政治体制をつくろうとしていたことがわかる。また天皇が二十四歳になるまでは名代を置くことや、神祇官が制度のなかに書き込まれていないことなど、維新政権の性格を考えるうえで重要な構想が少なからず見られる。ただし「政体」は案としては廃棄され、もう一つの草案である「規律」を下敷きに政体書が書かれ、その過程で「政体」も参照されるという位置に置かれたと見られる。
    従来、政体書は発布直後から議政官・行政官の兼任が行われて議政・行政を分離する原則に矛盾し、議政官下局も有名無実の議事機関となっていた状況が指摘されてきたが、「政体」に書かれた議会制度構想を念頭に置くと、政体書が高邁な理想をかかげつつも、草案より現実に即したかたちで書かれていたことがわかる。また、戊辰戦争で国内の形勢がほぼ固まった慶応四年冬以降、明治政府によって試みられた議会制度の導入についても、「政体」の影響が考えられる。明治政府発足当初の立憲政体導入の試みについて、再考を迫る史料と言えるだろう。
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