史学雑誌
Online ISSN : 2424-2616
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125 巻 , 8 号
選択された号の論文の5件中1~5を表示しています
  • 2016 年 125 巻 8 号 p. cover1-
    発行日: 2016年
    公開日: 2018/10/10
    ジャーナル フリー
  • 2016 年 125 巻 8 号 p. cover2-
    発行日: 2016年
    公開日: 2018/10/10
    ジャーナル フリー
  • 島津 毅
    2016 年 125 巻 8 号 p. 1-36
    発行日: 2016年
    公開日: 2018/10/10
    ジャーナル フリー
    中世京都では清水坂非人集団の奉行衆(ぶぎようしゆう)(以下、坂と記す)が京中の葬送を統轄していたと、これまでの研究では理解されてきた。そして坂が葬送を統轄するまでの経過は、次のように説明される。
    ①十三世紀末、清水坂非人(以下、坂非人(さかひにん)と記す)は、葬送を担った対価として、葬場へ持ち込まれた諸道具類を没収する権利を持っていた。
    ②十四世紀中頃、坂は京中の葬送を統轄しており、十五世紀、坂は京中の寺家(じけ)に免(めん)輿(よ)と言って三(さん)昧(まい)輿(こし)使用の免許を与え、寺家が独自に葬送を行える権限を与え得る存在であった。
    以上のような理解は、現在も通説として用いられているが、少なくとも二つの問題を抱えていた。一つは坂非人が葬送で諸道具類を取得し得た権利の由来が解明されていないこと、二つに、中世後期における坂の権益が獲得された経緯や背景が解明されていないことである。そこで、本稿はこれら問題を解明するために検討を進め、次のようなことが明らかになった。
    (1)少なくとも十世紀初め頃の葬送から行われていた、葬場での輿や調度品等の上(あげ)物(もの)を焼却する儀礼が十三世紀前半頃に廃れてゆき、代わって坂非人が上物を乞場(こつば)であった鳥(とり)辺(べ)野(の)で非人施行(せぎよう)の一環として受けるようになる。
    (2)十三世紀後半、坂は鳥辺野を「縄張り」として支配権を強め、葬地へもたらされた「具足」を当然に取得できる権益として確立する。
    (3)十五世紀頃、寺家の常住輿使用による葬送に坂が対処した結果、坂の得分が現物輿の取得から免輿措置としての金銭取得に変化する。
    (4)十五世紀以降、寺家による境内墓地創設への対処として、坂は鳥辺野での既得権益を梃子として、鳥辺野以外の葬地における葬送へも輿をはじめとする葬具の使用料などを取得するようになる。
    以上のように坂の得分の実態は、中世後期における葬送墓制の変化に対して、乞場・鳥辺野で得られなくなる輿等の葬具に対する補償を求めた坂の措置に過ぎなかった。
  • 諸橋 英一
    2016 年 125 巻 8 号 p. 37-61
    発行日: 2016年
    公開日: 2018/10/10
    ジャーナル フリー
    1918年に日本が導入した戦時利得税は戦時に発生した所得に課税される一種の所得税であるが、同税は成金に対する申しわけ的な課税という評価がされるにとどまっている。しかし同税は大戦中多くの国で導入され、総動員体制を支える政策としての性格を有している。本稿は、交戦国における同税の意義とそれが如何にして日本に紹介され、導入されるに至ったかについて再検討を行い、第一次世界大戦が日本に及ぼした制度的・政策思想的影響の一端を明らかにすることを目的としている。
    例えば英国などの主要交戦国では同税によって企業・資本家層にも戦争の負担を負わせることで、一般国民の感情を慰撫し彼らの戦時協力を維持する狙いが存在していた。多くの国民が兵役や産業動員に従事する中で、戦費=税金の流れ込む企業が巨利を得るという状況は看過されるべきものではなかった。これは通常の経済活動の結果としての貧富の格差とは区別され、政府が労働統制を進める中で交換条件として戦時所得への課税が導入されていったのである。
    一方で日本のマスメディアにおいては偶然利得の持つ担税力への注目や分配の不平等に対する社会政策上の必要性が基本認識として示されているが、同時に主要交戦国でみられた上記のロジックも多く用いられた。更に総力戦における国民強化のための社会政策として同税を支持する論説も散見された。主要交戦国の経験は同税への日本国民の支持を広めるため積極的に普及されたのである。
    当初大蔵省は財界の保護に重点を置き、利得税ではなく戦時超過利益特別積立法案の提出を準備していた。しかしシベリアへの出兵構想が持ち上がると財界への配慮は薄れ、戦費調達を主目的として第四〇議会に同税を提出するに至った。大蔵省は大戦にともなう経済的混乱に対して同税が有効であることも認識しており、戦時政策としての社会政策という理解を持ちつつあった。
    同税は形を変えて第一次大戦後にも存続していく。総動員政策と社会政策の表裏関係は日本においても戦時利得税という形でこの時期既に萌芽的に表現されており、それは第一次大戦が日本に及ぼした影響の一端であった。
  • 井上 弘樹
    2016 年 125 巻 8 号 p. 61-87
    発行日: 2016年
    公開日: 2018/10/10
    ジャーナル フリー
    本稿では、一九六〇年代から七〇年代の台湾での寄生虫症対策と、そこでの日本の医療協力に焦点を当て、医学分野において日台関係が再構築される過程を分析した。従来の研究では、一九四五年から一九五〇年代の台湾医学界の様々な場面に植民地期からの連続性が確認され、一九五〇年代から六〇年代にかけては、「米援」の下で台湾医学界の「アメリカ化」が進み、医学体系の「脱日本化」が図られたことが指摘されている。その一方で、一九五〇年代以降に日台医学界の関係の再構築が進展したことは等閑視されている。当該時期の日台の医学分野における関係の再構築をめぐる本稿の議論は、中国国民党政権と「米援」の下で台湾医学界の脱植民地化が進む中で、日本がそこにどう関わったのかという問題に通じる。
    一九五〇年代以降、米援の下で台湾の医学制度や組織の「アメリカ化」が進展したことは確かである。ただし、それは必ずしも台湾と日本の医学界の関係断絶を意味せず、特に戦前の人的関係に支えられた学術交流という場面で、日台医学界の関係は再構築された。この関係は、一九七〇年頃に政府間の制度化された医療協力へと移行する。寄生虫症対策に限れば、当時の台湾では米援終了や国際機関からの寄生虫症対策支援の中止、及び疾病対策の変化に伴い、寄生虫症対策の技術や資金が不足していた。一方の日本は、寄生虫症対策の経験を生かした海外医療協力を推進し始めた時期にあった。
    こうした状況下に始まる日本の医療協力は、環境衛生改善を中心とする台湾の従来の寄生虫症対策から、学校保健を基盤とする定期的な集団駆虫政策への転換を後押しした。ただし、台湾医学界でも回虫症研究や対策が着実に進められており、その成果は医療協力を含む寄生虫症対策に生かされた。他方、日本の寄生虫学界は、台湾での医療協力を通じて東アジアに再び活躍の場を見出し、その成功経験はその後の日本の寄生虫学の世界展開に繋がった。
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