史学雑誌
Online ISSN : 2424-2616
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125 巻 , 9 号
選択された号の論文の4件中1~4を表示しています
  • 2016 年 125 巻 9 号 p. cover1-
    発行日: 2016年
    公開日: 2018/10/10
    ジャーナル フリー
  • 2016 年 125 巻 9 号 p. cover2-
    発行日: 2016年
    公開日: 2018/10/10
    ジャーナル フリー
  • 池田 さなえ
    2016 年 125 巻 9 号 p. 1-37
    発行日: 2016年
    公開日: 2018/10/10
    ジャーナル フリー
    本稿は、「皇室はなぜ土地をもつのか」という根源的課題について、「北海道御料地除却一件」を事例として歴史的に検討するものである。
    本稿では、以下のことを明らかにする。まず、北海道御料地除却の過程で、御料地は除却して北海道庁の開拓事業に充てるべきだとする立場と、御料地は森林として保存し、民需供給・国土保全に役立てるべきだとする立場との相克が生じたことである。前者は宮内省―御料局、道庁―内務・農商務省の立場であり、後者は御料局札幌市長長の山内徳三郎の立場であった。しかし前者は、「拓殖」の題目の裏に皇室財産増殖・経営合理化という真の目的をもつ宮内省―御料局が「拓殖」事業を本務とする道庁を利用した形であり、そこに官林払下げによって地方自治の基盤強化を求める内務大臣井上馨とそれに賛同する農商務省が加わることで、除却の推進力となっていた。これに対し、後者の立場をとる山内は、元御料局長であり、自身の立場に近い品川弥二郎に頼るも、除却を食い止めることはできなかった。
    こうした様々な立場は、皇室の土地所有に対する観念として見たとき二つに分類することができる。分類の基準は、皇室の土地に皇室の経済基盤強化以上のものを見るか否かである。一方は、皇室はあくまでその経済基盤強化のために土地をもつべきだとする観念である。土地選定の基準は収益性である。
    それに対し、もう一方の観念は、皇室は土地をもつことによって民需供給や国土保全という役割を担うべきだとする観念である。筆者はかつて明治20年代の御料鉱山や長野・静岡の御料林において、皇室は民間産業の保護・勧奨のために土地をもつべきだと考えられていたことを明らかにしたが、北海道御料林において求められた役割は、民需供給・国土保全であった。しかもそれは、本来国家行政の職掌とされながら、現状は皇室にしかなしえない役割であると訴えられる点に特徴があった。
    本稿の検討は、従来言われてきたような、皇室はその経済基盤強化のために土地をもつのだとする御料地観も、当時いくつかあった御料地観の一つのバリエーションにすぎなかったことを示すものであり、今後はそれが一つに収斂していく過程・原因をこそ歴史的に問わねばならないだろう。
  • 及川 琢英
    2016 年 125 巻 9 号 p. 41-67
    発行日: 2016年
    公開日: 2018/10/10
    ジャーナル フリー
    満洲事変においては関内撤退が困難となった張学良配下の多くの軍官が様々な利害関係から判断し、日本への帰順、満洲国への参加を選択した。その意味で満洲事変の民族的抵抗戦とは異なる軍閥戦的性格が改めて確認される。 満洲国において大臣や軍司令官など重職を担っていったのは日露戦時特別任務班出身者や陸軍士官学校(陸士)留学生など日本軍と日露戦争以来の繋がりがある人物であった。張作霖が奉天軍閥を形成していく中で、特別任務班出身者、陸士留学生は淘汰されずに生き延び、張作霖に重用され、軍内で一定の地位を築いた。張学良期になると、両者は自身の地位に不満を貯めている傾向にあった。そこに満洲事変が起こり、日本軍は武力を背景に両者を強引に再編していった。 一方、内モンゴル東部地域では特別任務班出身の巴布扎布(バボージャブ)が官職に就いたが、独立運動に従事し戦死していた。清国期には政府の警戒によってモンゴル族子弟は陸士留学が認められなかったが、その後、巴布扎布の息子甘珠爾扎布(カンジュルジャブ)らが陸士留学を果たした。関東軍は満洲事変で当初、彼らの内モンゴル自治軍の挙兵に期待した。しかし、日本が影響力を行使できる軍官の育成が進んでいない中で同軍のあり方は馬賊謀略方式とならざるを得ず、さしたる成果は挙げられなかった。ただし同軍の存在は王公などの運動参加へと繋がり、関東軍にとって満蒙謀略発動で課題となることが予想されたモンゴル族勢力と漢族勢力の調整を計算することが可能となった。 また特別任務班における馬賊監督官が同馬賊の清国官軍編入に合わせて応聘され、それが制度的に発展したのが東三省軍事顧問であった。満洲事変ではさらに満洲国軍事顧問へと発展し、満洲国軍を実質的に統制していく。ただし東三省軍事顧問は日露戦争を体験し中国人に連帯感を有していた陸軍「支那通」の第一世代が担っていたが、満洲国軍事顧問は満洲を客観視し武力を背景に理想を追求した第二、第三世代が担っていった。
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