史学雑誌
Online ISSN : 2424-2616
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126 巻, 11 号
選択された号の論文の4件中1~4を表示しています
  • 2017 年 126 巻 11 号 p. Cover1-
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/11/20
    ジャーナル フリー
  • 2017 年 126 巻 11 号 p. Cover2-
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/11/20
    ジャーナル フリー
  • 民部省・主計寮の職掌を中心に
    神戸 航介
    2017 年 126 巻 11 号 p. 1-37
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/11/20
    ジャーナル フリー
    本稿は律令国家の中央官衙財政の基本構造およびその歴史的特質の解明を目指すものである。検討にあたっては予算会計論・財政官司論の視覚を継承しつつ、日本古代の財政担当官司である民部省・主計寮の職掌を、唐の財政官司と比較するという手法をとった。
    律令国家の各官衙の必要経費は、事業ごとに必要経費をそのつど申請・受給するものであり、主計寮が審査にかかわった。唐の皇帝は予算担当官司である度支が作成する年度予算の報告を受けていたのに対し、日本の天皇は国家財政の運用に関与しない。また官司ごとの請求も次第に固定化し、財政担当官司である主計寮の予算機能は意味をなさなくなる。
    官衙必要経費の調達方法としては、一般税制のほか、地方財源を使用して調達する交易制がある。律令制当初は、畿内から祭祀必要物を調達する制度のみが規定され、これは唐の財政官司による経費調達機能とは全く異なる、律令制以前の慣行を継承するものであった。しかし律令官僚制の進展により必要経費が増大すると、畿外の地方財源を官衙必要経費に充てる交易雑物制の拡大がその需要を満たした。
    決算制度については、唐では比部という官司が中国全土の年間財政状況を把握し決算を掌握した。また唐では各官司が公廨という独立財源を有しており、これの運用を監査するのも比部の決算制度に含まれていた。日本は比部の職掌を民部省・主計寮の職掌に継承したが、日本では各官衙の備品状況を確認するだけで年間予算との関係は薄く、律令制当初は官衙独立財源も存在しなかったため、決算制度の意義は小さかった。
    このようなシステムで日本の律令官衙財政は運営されていた。予算・調達・決算のいずれも唐のそれとは異質なもので、地方からの貢納物の支配層による再分配という、律令制以前のあり方に規定される部分が大きいと言える。
  • 遼の漢人劉六符の役割を中心に
    洪 性珉
    2017 年 126 巻 11 号 p. 41-65
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/11/20
    ジャーナル フリー
    本研究は、遼宋増幣交渉(1042年)の歴史的意義について考察したものである。興宗親政期の遼の政治的状況をみる際、欽哀皇后一族や耶律重元の動向を顧慮しなければならない。欽哀皇后の一族蕭孝穆は、その一族と興宗両方を配慮しなければならない立場にいた。欽哀皇后は、耶律重元を次期皇位継承者として支持していたため、興宗は彼を政治的な配慮のうえで厚遇し、多くの権力を与えていた。
    重熙12年(1041)12月に、興宗は南枢密使蕭孝穆と北枢密使蕭恵と協議し、「関南の地」を取るために宋と戦争することを決めた。その際、蕭孝穆による宋との戦争への反対は確認されるが、欽哀皇后の一族による反対は確認されない。興宗は、戦争準備をすると同時に蕭英と劉六符を宋に遣わした。劉六符によって作成された遼の国書は、梁済世という人物によって盗まれて、宋に事前に報告される。遼の国書を入手した宋は、増幣でその問題を解決すると決め、富弼を遼に遣わして交渉を行った。
    増幣交渉における各人物の立場は異なっていた。遼の興宗は、当初から「関南の地」の割譲を宋に強く求めていた。それに対して、富弼は一貫して増幣による利を説き、最終的には「増幣」で交渉を妥結することに成功した。一方、遼側の交渉担当者劉六符は、領土の割譲に拘っていなかったので、興宗の立場と異なる。これは、興宗皇帝への忠誠と同時に、一族の基盤となる南京地域への配慮も必要であった彼の個人的背景に起因する。
    増幣で戦争局面がおさまると、遼の内部の諸部族が財物を得られる機会を失って、不満が高まる様子が確認される。これは遊牧国家における掠奪・分配行為と深く関わるものであり、遼の皇帝と諸部族の関係は、以前の遊牧君主と諸部族の関係との類似性が認められる。また、増幣交渉以降は、遼の対宋外交戦略として「威嚇行動」の駆使が見て取れる。その点で、劉六符にとって増幣交渉とは、遼の戦争準備を巧みに「威嚇行動」に転換させて増幣を導くことであった。
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