史学雑誌
Online ISSN : 2424-2616
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126 巻 , 3 号
選択された号の論文の5件中1~5を表示しています
  • 2017 年 126 巻 3 号 p. cover1-
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
    ジャーナル フリー
  • 2017 年 126 巻 3 号 p. cover2-
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
    ジャーナル フリー
  • 松本 和明
    2017 年 126 巻 3 号 p. 1-38
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
    ジャーナル フリー
    本稿は近世畿内近国における大坂町奉行所による寺社支配について、京都・大坂両町奉行所間での元禄五年(一六九二)寺社改めの意図・方式の差異を確認し、従来の理解に対して再考を促すとともに、その差異をふまえ近世中後期における奉行所寺社支配の実態を追究することを目的とした。
    第一章では、京都・大坂両町奉行所における寺社改めの意図・方式を確認した。その結果、京都町奉行所支配国においては「一宗之寺社本末由緒」改めを目的に、主に本末関係に依拠した方式で作成が指示された結果、多くの場合本末関係の把握にとどまったこと、対して大坂町奉行所支配国においては「寺社敷地境内間数」改めを目的に、個別領主・町在・寺社人が関与する方式で作成され、すべての寺社の詳細が把握されるというように、両奉行所間において目的・方式・結果いずれも差異が生じたことを明らかにした。
    第二章では、まず摂津国武庫郡西宮社に即して寺社改帳と寺社支配との関係を編年的に分析し、そのうえで支配国内における他寺社の公事訴訟と寺社改帳との関係を追究した。さらに、寺社改めのあり方と関連づけて享保七年(一七二二)の国分けや、寺法・社法出入の再評価を試みた。その結果、①寺社改帳は公事訴訟や諸届けに奉行所が判断を下すための台帳であるが、②大坂町奉行所支配国では幕末期まで元禄寺社改帳が寺社台帳として機能し続けるいっぽう、京都町奉行所支配国ではかかる事例を追跡しがたい、③寺社支配のあり方は寺社改めの意図・方式に規定されており、国分けの際の寺社支配権分割や、寺法・社法出入など寺社改めでは把握できない案件もそれとの関係のなかで理解する必要がある、とした。
    以上の分析から、元禄五年寺社改めの歴史的意義は畿内近国固有の施策として把握されるべきであること、そして大坂町奉行所寺社支配のあり方は寺社改めの方式に規定されたものであり、かかる視座は寺社支配の実態・全体像の把握にもつながる、と結論づけた。
  • 池田 真歩
    2017 年 126 巻 3 号 p. 42-66
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
    ジャーナル フリー
    本稿は、近代初頭の首都計画が、東京の「官」(東京府庁)の手から中央の「官」(内務省をはじめとした中央官庁)の手に引き渡される過程を考察した。
    東京は、中央政府の所在地であると同時に、地方政府たる東京府の管轄下にあった。中央・地方の境目があいまいな同地で、その改造計画が中央の主導下に置かれるまでの経緯は、首都・東京における地方自治の歴史的性格を知る格好の手がかりである。しかし先行研究は、計画内容や中央政府内部の対立を解明する一方、右の経緯への関心は薄かった。
    そこで本稿は、東京府庁内部の動向を追うとともに、首都計画の中核をなす「中央市区」概念の複合性に着目して、計画始動過程を考察した。得られた知見は以下の通りである。
    計画の端緒をつくった東京不燃化計画は東京府吏が提起し、〈焼けやすい〉土地を画すという発想を中核とした。東京ではこれが〈栄えている〉土地と大きく重なったため、右の区域は「中央市区」とされ、より包括的な改造への機運を生んだ。しかしこの「中央市区」概念は、〈焼けやすい〉≒〈栄えている〉土地と必ずしも重ならない、〈栄えるべき〉土地という要素も含んでいた。新任府知事の松田道之は、不燃化に築港を優先させ、「中央市区」=〈栄えるべき土地〉という流れをつくる。さらに松田は、府吏に多くを委ねた前任の楠本正隆とは対照的に、立案の主導を望む府吏を抑え、府庁の役割を「技術」と「現場」の知によって中央の立案作業を支えるものに限定していった。
    地方自治の枠組みの外に首都計画を置いたのは、中央政府首脳ではなく、東京府知事自身の選択であったといえる。しかし数年後に計画が固まると、その実行体制は、部分的に地方自治の枠組みの中に戻された。計画段階で回避されたため一層複雑さを増した中央の「官」・東京の「官」・東京の「民」(東京市会)間のコミュニケーションが、以降の東京の地方自治を特徴づけていく。
  • 関口 哲矢
    2017 年 126 巻 3 号 p. 67-92
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
    ジャーナル フリー
    本来、復員庁の改組と復員業務は関連づけて議論されるべきである。しかし先行研究では、復員庁の史実調査部に所属する旧軍幹部とGHQ・G2(参謀第二部)のウィロビー部長との関係から、改組に旧軍復活の意図があったとする指摘が多い。この評価は妥当か。再検討の結果、復員庁の改組が復員業務の進捗ではなく、米ソ対立やGHQ内の部局間対立、日米の見解の相違によって方向づけられたことを明らかにした。
    復員庁が発足した当初は、復員の動向が意識されていた。米ソの話しあいによっては、最後まで残されたソ連地区からの復員が進み出すかもしれず、それに伴い今後の復員庁の規模も決定される可能性があったからである。しかし米ソの議論は、ソ連が復員庁の縮小と旧軍人の追放を主張し、アメリカが反発するという政争に終始した。くわえてアメリカは、日本には旧軍人の追放に厳格である反面、ソ連に対しては残置の正当性を主張した。GHQ内でもGS(民政局)は追放に厳格であるのに対し、G2は宥和的という相違があった。
    復員業務に対する日米間の認識のずれ(・・)も、復員庁の運営に大きな影響をあたえた。GHQが復員手続きの完了と復員者の引揚げをもって復員の完了ととらえたのに対し、日本側は行方不明者の捜索までを業務とみなして組織の存続を主張した。しかし認められず、改組は段階的に進められていく。そのため日本側は、組織の存続を粘り強く訴えていくことになったのである。
    以上から、復員庁の改組を方向づけたのは日本・GHQ双方の意思疎通不足といえよう。GHQの主張は対ソと対日で異なり、GSとG2も対立と協調の両面をみせあった。日本内部でも復員庁の改組方針を政府見解にまでいたらせる努力を怠った。これらの結果、改組の議論に各政治勢力の利害関係が持ち込まれ、復員の状況が反映されることを妨げたのである。よって、改組と再軍備の動きを強調する傾向は再考されるべきである。
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