史学雑誌
Online ISSN : 2424-2616
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127 巻 , 3 号
選択された号の論文の4件中1~4を表示しています
  • 2018 年 127 巻 3 号 p. Cover1-
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/03/20
    ジャーナル フリー
  • 2018 年 127 巻 3 号 p. Cover2-
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/03/20
    ジャーナル フリー
  • 吉井 文美
    2018 年 127 巻 3 号 p. 1-36
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/03/20
    ジャーナル フリー
    本稿では、日中戦争期に日本が揚子江の航行を独占しようとする過程で発生した国際問題について、宣戦布告を行わずに事実上の占領地経営を行い、東亜新秩序を掲げながら英米協調路線を探るという、日本が抱えていた二つの矛盾への対応と、揚子江開放問題が深くかかわっていたことに注目しながら検討した。
    揚子江上での戦闘に一区切りがつき次第、自由航行再開を求める英米に対して、日本は漢口陥落後も、軍事・治安上の理由から封鎖を解こうとしなかった。しかし、日本の商船が往来するなかで、第三国船が揚子江路から締め出されていること、事実上の占領地支配を行い、揚子江を封鎖していることが非難された。日本は作戦上の理由を掲げて揚子江開放を拒み続けるとともに、宣戦布告なき占領地支配の正当化を試みた。
    さらに、本稿では有田八郎外相が東亜新秩序下における英米協調の追求という観点から、揚子江開放を図っていたことを指摘した。有田は強硬な姿勢を見せて国内をまとめたうえで揚子江開放に踏み切り、英米との協調関係を再構築しようと考えていた。しかし、占領地政策の停滞のなか、興亜院が打ち出した揚子江開放の期限は延期された。本稿では、通貨工作、水運業・商業上の進捗状況を見、開放を困難とする現地の状況について確認した。
    日米通商航海条約廃棄通告の後、揚子江の部分的開放の方針が発表された。これには直接・間接的に米国に働きかけることで、日米暫定協定締結を図る狙いがあったが、英米は日本の狙い通りには動かなかった。さらに、華中の現地では開放のための準備策も、予定通りに実行できなかった。これは英米協調の追求のみならず、華中における「自他併存」や、汪精衛政権の経済基盤の育成も難しかったことも意味した。
  • 宇都宮 美生
    2018 年 127 巻 3 号 p. 40-65
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/03/20
    ジャーナル フリー
    穀倉に関する研究は、穀物の貯蔵が国家財政の基礎になるとの認識から国家体制の有り様をみる一つの手段として展開されており、隋唐の穀倉について、発掘成果のある洛陽含嘉倉が独り議論の対象とされてきた。しかし、含嘉倉は唐代の倉であり、隋代の子羅倉、洛口倉、回洛倉の存在は見落とされている。よって本稿では、隋唐令や発掘資料を用い、洛陽四倉の特徴と変遷、設置場所ならびに各倉の相互関係と役割を明らかにする。そして、隋三倉から唐含嘉倉一倉への移行にみる穀倉の存在と位置づけを導き出し、もって隋唐期の国家体制にみる地下式穀倉の意義を再検討していく。
    まず、隋唐期の穀倉に関連する史料の再検討を行い、窖の実測値を用いた蓄積量の分析や、施設の規模・構造ならびに立地関係を探究した。次に、その考察から得た知見と唐令とを照合し、隋唐両代の運営状況を検証した。第三に、多方面から隋三倉と含嘉倉とを比較して、両時代の行政の変化の過程を考察した。
    上記考察の結果、子羅倉は宮廷内飲食用の穀物倉、洛口倉は洛陽・長安への転般倉および北方への軍倉、回洛倉は洛陽城の太倉として、それぞれが役割を分担し隋後半の洛陽城を支えたことが理解された。これに対して、唐代高宗期からは含嘉倉が登場し、やがて一倉がこの三倉の役割を集中した。隋三倉に比べ規模の縮小した含嘉倉が、一倉のみで累年の集積量増加に対応できたのは、令の規定を踏まえた業務の改善により、作業の効率化に成功したからである。つまり、隋三倉から含嘉倉一倉への移行は単なる構造や設置場所の変化だけでなく、隋唐期の行政実務の変化をあらわしている。地下式穀倉の運営が唐代で成熟した段階に達したことが認められる。
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