史学雑誌
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127 巻, 6 号
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  • 2018 年 127 巻 6 号 p. Cover1-
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/06/20
    ジャーナル フリー
  • 2018 年 127 巻 6 号 p. Cover2-
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/06/20
    ジャーナル フリー
  • 「防災史」研究の視座
    吉田 律人
    2018 年 127 巻 6 号 p. 1-6
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/06/20
    ジャーナル フリー
    本特集「20世紀日本の防災」は、2016年11月開催の第114回史学会大会における近現代史シンポジウムの成果を再構成したものである。戦前から戦後を貫く時期を対象に、「防災」概念の形成や諸機関の対応、国際協力の変化などを検証することで、災害史を総合的に捉える視角の提示をめざした。本稿では、各論の背景にある災害に対する歴史学の役割と、「防災史」研究の視座について研究史を踏まえながら論じた。
    災害に対する歴史学のむき合い方には大きく二つの方法がある。すなわち、一つは災害の脅威から歴史資料を保護すると同時に、災害の記録を後世に伝えていく方法、もう一つは史料批判に基づく実証によって過去の災害像を明らかにし、災害史研究の成果として社会に還元していく方法である。従来、歴史学において災害が研究対象になることは少なかったが、1995年1月の阪神・淡路大震災以降、前者の活動が各地で活発に展開されるようになった。一方、後者の活動についても北原糸子や鈴木淳を中心に、理系分野の研究者と連携しながら研究成果を蓄積、その一部は中央防災会議が設置した「災害教訓の継承に関する専門調査会」の報告書に繋がっている。さらに2011年3月に発生した東日本大震災は、歴史学の役割を問い直す契機となり、各学会は災害史に関するシンポジウムや特集記事を通じて議論を深めたほか、関東大震災90周年となる2013年9月前後には、災害史に関する企画展示が各地の博物館や文書館で展開されていった。
    そうした動きから確認できるのは、①過去の災害における人々の行動の検証は、人文科学、特に歴史学の役割であることと、②他分野の研究成果も取り入れながら、継続的に災害史研究を進めて行くことの二点である。こられの点を近現代の政治社会史の観点から考えた場合、従来の災害史の研究蓄積を継承しながら、防災という政策の変遷を解明することで、新たな視座を提示することができると考える。
    ここで分析対象とする防災には、①平時、②災害発生、③応急対応、④復興、⑤災害対策、⑥災害を経験した新たな平時という時間的なサイクルがあり、それぞれの段階で政治的、社会的な動きがある。これらを過去の災害の連続性から多角的、構造的に捉えることで、将来的な「防災史」の確立をめざしていきたい。本特集から歴史学の新たな可能性が導き出せれば幸いである。
  • 土田 宏成
    2018 年 127 巻 6 号 p. 6-19
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/06/20
    ジャーナル フリー
    本稿は、20世紀日本における災害と防災の概念の変遷を論じている。
    その概念を大きく変化させた画期的な出来事として、1923年の関東大震災と、1945年の第二次世界大戦の敗戦、1961年の災害対策基本法の制定がある。関東大震災の経験をもとに、大規模な自然災害と空襲の両方を含む「非常変災」対策が講じられ始めた。1930年代に日本が戦時体制に入っていくと、自然災害対策よりも防空が重要になっていく。しかし、1933年に昭和三陸地震津波が東北地方の太平洋岸を襲い、1934年には室戸台風が西日本を襲った。これらの災害の経験により自然災害対策も進んだ。
    こうして「防空」という言葉だけでなく、「防災」という言葉も広まり、正式な用語として1937年の防空法や1939年の気象官署官制のような法令にも使用されるようになった。1940年代初頭に空襲の危険が現実化すると、防空が最優先された。
    第二次世界大戦の終戦後、防空は不要になったが、1950年の朝鮮戦争の勃発により再び必要になった。しかし、人々は第二次世界大戦の米軍による空襲において防空が役に立たず、多くの人々が死んだことを知っていたため、防空への協力を嫌った。戦後日本では、民間分野において防空は発達しなかった。
    敗戦前後から大規模な地震・台風がしばしば日本に襲来した。1959年の伊勢湾台風による深刻な被害が、1961年の災害対策基本法の制定につながった。戦後復興から高度成長に向かう1950年代半ば頃からは、自然災害に加え、大規模な海難事故・爆発事故も相次いだ。同じ頃、原子力の利用も始まり、原子力災害への対策も講じられた。
    こうしたことが災害対策基本法における「災害」の定義にも反映されている。災害は時代の特徴を表している。
  • 中澤 俊輔
    2018 年 127 巻 6 号 p. 19-34
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/06/20
    ジャーナル フリー
    本稿は、一九二三年の関東大震災から一九六一年の災害対策基本法の制定にかけて、日本の警察による災害時の警備体制がどのような変遷をたどったのかを考察する。
    戦前の警察は防災に関する様々な事務を管掌し、災害発生時には避難民の誘導や救護、被災地の治安維持を担った。もっとも、明治期には全国統一の非常警備規程は存在しなかった。各庁府県は個別に規程を制定したが、災害の定義と規程の内容は各府県警察の裁量に委ねられた。
    非常警備規程の制定についての第一の転機は、関東大震災である。各庁府県は災害を念頭に置いた警備計画を策定し、警備以外の救護・復旧の面で他の行政機関や民間団体との協力を模索した。災害を詳細に定義する府県もあった。しかし、昭和初期になっても半数近くの県では非常警備規程は制定されていなかった。
    第二の転機は、昭和期のテロである。一九三二年の五・一五事件の後、内務省は同年九月に初の統一的な非常警備規程を制定した。これにならい、各府県も非常警備規程を改正、ないし制定した。もっとも、昭和期には災害よりも人為的な事変に警備計画の重点が置かれた。
    第三の転機は、日中戦争である。日本が戦争へと突き進むなか、政府は内容の重複する非常警備と戦時体制における総動員警備の関係を整理しなければならなかった。内務省は一九三八年に非常警備規程を改正し、自然災害と人為的事変で計画を分けることを認めた。そして、非常警備と総動員警備を区別し、警備計画を別個に策定することを義務づけたのである。
    しかし、太平洋戦争の開戦後、非常警備と総動員警備は事実上統合された。また、警察の人員不足によって警防団が警備に動員された。戦況の悪化にともない、災害警備よりも空襲の優先度が上昇した。
    戦後の警察は、治安上の課題と警察制度改革に翻弄された。一九四七年の警察法は、国家非常事態の発生に際して首相が警察を統制する措置を設けた。そして、一九六一年の災害対策基本法によって災害の定義が確立し、災害時の非常警備は防災に組み込まれた。
  • 高岸 冴佳
    2018 年 127 巻 6 号 p. 35-48
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/06/20
    ジャーナル フリー
    本稿は「国民消防」をキーワードに、関東大震災を契機として警視庁消防部に芽生えた防災体制の変遷を分析することで、昭和戦前期の防災像を明らかにするものである。なお「国民消防」とは、松井茂が一九二五年に主張したもので、その意義とは、防火の根本問題を国民が自覚し、国民自身が主に火災予防に努めることである。
    まず昭和戦前期における消防官吏の実態について検討した。消防部は一九二五~一九三七年にかけて、従来一般的に浸透していた消防事務の範疇を超える事務を積極的に実施した。これを本論文では「消防事務積極化」と呼ぶ。昭和戦前期は消防部が「消防事務積極化」に奔走した時期であった。
    次に消防部による防災体制の性質と変遷を検討した。消防部の防災体制は「消防事務積極化」の一つとして存在していた。消防部が一九三〇年に非常時火災警防規程を制定したことで、消防部に防災体制が芽生えた。これは一九三二~一九三三年に弱体化し、一九三六年から停滞した。防災体制が弱体化した理由は、満州事変が勃発し、国民の防空意識が高まったこと、停滞した理由は、陸軍・東京市に防護団の指導権を取られ「消防事務積極化」が後退したことを機に、消防部が防災よりも防空を優先するようになったことである。
    最後に消防部の防災像と昭和戦前期の時代像を明らかにした。消防部の非常時災害対策は、常に住民の援助を得ることを前提としていた。これは非常時災害対策が、「消防事務積極化」として存在した故に、人に作用する事務である必要があったためである。しかし住民に対する命令権を持っていない消防部は、非常時火災警防規程において公共的団体に対する命令権を消防署長に付与できなかった。そこで消防部は、住民とコミュニケーションをとり、理解を促す形で、「消防事務積極化」を促進させた。以上のことから昭和戦前期における消防部の防災像は、行政と住民の連携を必要不可欠と考えるものだったといえ、昭和戦前期は行政と住民の協働を重視した防災像が生まれた時代であると考えられる。
  • 関東大震災から自衛隊創設まで
    吉田 律人
    2018 年 127 巻 6 号 p. 48-64
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/06/20
    ジャーナル フリー
    本稿では、自衛隊法第83条で定められた災害派遣制度と、衛戍条例第9条で定められた災害出動制度の類似点に着目、軍事力の要請権者や部隊指揮官の権限に留意しつつ、戦前と戦後の法令を分析することで、災害に対する軍事組織の役割を検証した。今日、戦前、戦後ともに災害時の軍事組織の対応について研究の蓄積がなされているものの、第二次大戦の前後を通観した分析はなく、本稿の作業は自衛隊の対内的機能を解明していく上でも意味がある。具体的には、災害時の出動に関する法令を戦前と戦後の組織ごとに整理しながら制度の変遷を追った。
    上記の作業から全体像を俯瞰すると、軍事組織としての戦前と戦後の連続性が浮かび上がってくる。戦前、陸海軍ともに地方官からの要請を基本としつつも、師団長や衛戍司令官、鎮守府司令長官や要港部司令官、艦隊司令長官の判断で出動できたほか、連隊長や艦艇長も災害に直面した場合は臨機応変な対応が可能であった。しかし、関東大震災は従来のシステムでは対応できない災害で、それ以後は事前計画の策定や広域的な軍事動員など、災害の教訓を活かした対応をとるようになった。さらに「防空」の問題が浮上すると、陸海軍はそれに応じた枠組みを構築していった。災害対応を定める基本的な法令は変化しなかったが、戦時体制に伴う新たな法令が次々と制定されるなか、災害時の軍隊の存在は「防空」政策の中に組み込まれていった。
    戦後、陸海軍が解体するなか、占領軍による災害対応はあったものの、日本独自の災害対処機関は警察や消防に限られた。だが、海上保安庁の新設とともに、海難救助の体制が構築されたほか、朝鮮戦争を契機に誕生した警察予備隊にも災害への対応が求められた。ただし、警察予備隊の姿勢は慎重で、意思決定については総理大臣の判断を必要としたが、災害の現実を前にして、次第に部隊指揮官の判断による対応も可能になっていった。
    以上の状況を踏まえると、災害派遣制度の原型は戦前の災害出動制度にあり、戦後の制度は次第に戦前の形に近づいていった。戦前の陸海軍は20世紀前半の災害対応を通じて、防災の一翼を担う機関として社会に定着、その状況は戦後も変わらず、警察や消防で対処できない場合は、最終的な手段として軍事組織が出動することになったのである。
  • ヤコビ 茉莉子
    2018 年 127 巻 6 号 p. 64-82
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/06/20
    ジャーナル フリー
    津波は、原因となる海底地形の変形から発生までの余裕があるため予報は可能であり、警報や避難などで対応することができる。環太平洋地震帯で起きた津波は広範囲に被害を与える可能性があり、津波防災は津波研究の国際協力を必要としている。本稿は津波研究の国際化と、太平洋の中の日本とアメリカの津波防災体制の成立をグローバル史の視点から紹介するものであり、二つの目的を持つ。第一に、津波を題材に、ローカル・国家・ グローバルの三つのレベルから防災を捉え、日本の防災体制の成立と国際的な動きとの関連性、及びその中の地域の役割を明らかにし、 第二に、科学者の防災への貢献を分析することである。科学者はエキスパートとして防災対策を助言するほか、国際協力の架け橋となる存在である。
    「Tsunami」という言葉は国際的に通用するが、その背後には日本の地震学の発展と国際協力の展開がある。災害国日本は地震学の先進国として世界的に認められており、今村明恒などは津波研究の「開拓者」となり研究成果を英語でも発信した。一九二〇年代には更に国際協力が求められるようになり、一九二六年の太平洋学術会議で観測ネットワークが提案されたり、 一九三一年に国際測地学・地球物理学連盟のもとで津波調査委員会が設置されたりしたが、長続きはしなかった。日本の研究者の影響を受け、Thomas Jaggarらハワイの津波研究者は一九二〇年代から三〇年代にかけて世界初の津波警報を実行した。一方、日本では一九三三年の昭和三陸津波を機に、総力戦体制に影響を受けた避難訓練や三陸津波警報組織を導入した。一九四六年のアリューシャン地震津波の影響でアメリカ沿岸測地局はハワイに津波警報センターを設け、地震観測の報告を日本や南米諸国に要請し、GHQは日本に全国を対象にした津波警報を要求した。一九六〇年のチリ地震は、この制度は不十分であることを示し、新たな津波研究に対する国際協力と太平洋津波警報システムの出発点となった。
    日本とアメリカ合衆国の津波防災や津波防災に対する国際協力は、いずれも似通った経路を辿り、影響しあいながら成立した。津波防災はいずれも津波災害を受けやすい地域から一九三〇年前後に進められ、その背景には防災に関心を寄せる科学者がいた。戦後になって国家レベルで組織が設けられ、国際協力は一九六〇年代に成立した。日本の防災は、国際的な展開から切り離して考えることはできない。
  • 土田 宏成
    2018 年 127 巻 6 号 p. 83-85
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/06/20
    ジャーナル フリー
    本特集は、二〇世紀日本において災害にどのような対策が立てられ、どのような対応がなされてきたのかを考える防災史の試みである。各論文では、防災概念の歴史的変遷や、防災における警察、消防、軍隊、科学者、市民の役割や活動を取り上げた。これらの論文は歴史研究の新たな可能性を示しているが、国民をどのように動員し、政府の管理下に置くかを示した研究として読まれてしまう危険性もある。
    筆者らは、災害や防災の歴史研究の基盤をつくることをめざしている。しかし、各論文で扱った防災は、主に人的活動の側面に関わるソフト対策である。土木・建築に関わるハード対策にはほとんど触れられていない。
    災害史という研究分野はまだ確立されていないし、防災史も同様である。過去にどのような災害が発生し、どのような被害があったのかがわからなければ、当然のことながら、その対策を研究することはできない。防災史は災害史研究の一部であるという立場から、過去の災害に関する研究全体を推進していく必要がある。
    今後はまず基礎データとなる、これまでにいつどこでどのような災害が起きたかに関する情報を収集し、共有することから始めるべきである。地域の歴史を扱った自治体史の記述を調べることで、まだ知られていない災害を発掘する手がかりを得られるのではないか。さらに、国土交通省(建設省)がまとめている河川史を活用することで、自治体をまたいだ水害や土砂災害を河川の流域という枠で把握することもできるだろう。
    災害の研究には、人文科学者、社会科学者、自然科学者などの間の密接な連携が必要になる。特に人文科学系と自然科学系の歴史研究者の協力が不足している。歴史学者は史料の紹介・読解・解釈などによって自然科学系の歴史研究に貢献できる。また、自然科学者の専門知識が、歴史の分析をより深く、豊かにしてくれる。
    本特集が、災害史・防災史研究の新たな出発点となるよう、さらに研究を進めたい。
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