史学雑誌
Online ISSN : 2424-2616
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127 巻, 7 号
選択された号の論文の4件中1~4を表示しています
  • 2018 年 127 巻 7 号 p. Cover1-
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/07/20
    ジャーナル フリー
  • 2018 年 127 巻 7 号 p. Cover2-
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/07/20
    ジャーナル フリー
  • 府県庁舎建築修繕費の地方税移行を手がかりに
    袁 甲幸
    2018 年 127 巻 7 号 p. 1-35
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/07/20
    ジャーナル フリー
    本稿は、府県庁舎営繕費の地方税移行過程を検討することによって、地方制度の変化がもたらした府県権力の性格変容を考察するものである。 府県庁舎営繕費の地方税負担を規定した明治十三年太政官第四十八号布告が出されるまで、府県庁舎は中央省庁と同質のものとされており、その営繕には国家の権威付けが意識されていた。そのため、庁舎は住民と距離の遠いものであり、新庁舎の落成に伴う行事にも、「官」「民」二元対立的な府県内の権力構造が反映されていた。
    第四十八号の布告から施行までの移行期において、地方官の駆け込み上申に対し、中央政府は建前上、庁舎営繕を府県内一般の公同事務とみなし、目下の国庫支弁はあくまで地方税不足分に対する補助であるとしていた。ただし、茨城・群馬県の事例で示されているように、府県内の一部地域の「民意」から出た営繕要望が、府県会において「公論」としてまとまらなかった際にも、補助が認められた。そこにおける「民意」は、後づけられたものさえあったが、「民意」を調達するために地方官は、庁舎営繕と府県住民の福祉とリンクしはじめ、庁舎の情報を積極的に発信し、さらに「官」「民」二元対立的な権力構造を多少払拭しうる「牧民」像を語りだした。
    やがて庁舎営繕費が地方税負担となり、府県会や世論においては、庁舎は国家権威ではなく「我々の府県」のシンボルとして認識されるようになった。一方、府県行政は府県会を通じて営繕費の予算を確保する以外も、住民に向けて庁舎をアピールし、「牧民」像に代わる「官民調和」論を唱え、より広範囲な「公論」を求めていた。
    このように、税源の移行により、庁舎営繕事務が国家事務から府県内一般の公同事務へと変化したことにより、その施行には、広範な「公論」に依頼する必要性を増した。そのことで同事務を運営する権力の性格は、従来の国権から「公権」へと移りつつあったのだと理解できるのである。
  • 産業資本家と政友会の接近
    伊藤 陽平
    2018 年 127 巻 7 号 p. 39-61
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/07/20
    ジャーナル フリー
    日露戦後は都市化、産業化の進展により、新たな利害が台頭してきた時代である。従来、財界や民衆運動といった新たな利益に対応した勢力として注目されてきたのは桂系官僚であった。一方、政友会に関しては、地方利益誘導による党勢拡張という観点から考察されてきたため、政友会が日露戦後の新状況にいかに対応したのかについて研究は進められてこなかった。
    本論は財界の影響力を端的に示した第一次西園寺内閣末期の財界救済運動を考察し、次の事実を明らかにする。第一に財界救済運動に産業資本家の日銀見返担保品拡張要求と金融業界の公債償還要求の二潮流が存在したことである。金融業界は鰻会・鮟鱇会を基盤とする桂系官僚との強いパイプを築いており、財界の本流であった。それゆえ、産業界は政友会へ接近することとなる。桂の支配下にあった大蔵省・日銀は担保品拡張に消極的であり、やがて、救済融資要求は日本興業銀行へ向けられる。政友会は財界救済に対応すべく、興銀と結託した救済融資を画策するのである。さらに、見返担保品拡張要求が展開する中、福沢桃介ら交詢社勢力と岡崎邦輔ら政友会議員が合流し、実業同志会が結成される。交詢社と岡崎のつながりは後に第一次護憲運動の震源となる。第二に政友会は興銀の救済融資にも消極的な大蔵省を制圧するため、桂との提携破棄、政権基盤拡大を図っていったことである。政友会は産業界、興銀との連携関係を背景に、政策決定の主導権を確立しようとしていく。水町袈裟六大蔵次官の更迭と興銀の添田寿一の後任次官就任によって、救済融資を断行しうる政策決定の主導権を確立しようとしたのである。
    日露戦後の政財界は桂と金融業界、政友会と産業資本家という対立構図を形成していた。政友会は産業界という財界の傍流を取り込むことで政権基盤拡大を目指していったのである。後の第一次護憲運動の発生は政友会と産業界の結合の延長線上に位置づけられよう。
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