史学雑誌
Online ISSN : 2424-2616
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128 巻, 12 号
選択された号の論文の4件中1~4を表示しています
  • 2019 年 128 巻 12 号 p. Cover1-
    発行日: 2019年
    公開日: 2021/09/02
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  • 2019 年 128 巻 12 号 p. Cover2-
    発行日: 2019年
    公開日: 2021/09/02
    ジャーナル フリー
  • 成都東御街後漢碑にみる郡学と地域社会
    新津 健一郎
    2019 年 128 巻 12 号 p. 1-32
    発行日: 2019年
    公開日: 2021/09/02
    ジャーナル フリー
    本稿の目的は後漢時代における漢帝国の地方統治に対する辺境地域社会の反応を解明することにある。漢帝国は早くから辺境の征服地も含めて体系的・集権的統治制度を整備したが、そうした国家制度と現地地域社会との接触やその展開には検討の余地が残る。そこで、成都東御街で新たに出土した二点の後漢石碑(二世紀中期。李君碑及び裴君碑。総称して東御街漢碑)及び四世紀の地方志である『華陽国志』を材料とし、紀元前三世紀に戦国秦によって征服された西南辺境である四川地域を対象に分析を行った。
    東御街漢碑は後漢蜀郡の治所にあたる現成都市の中心部でまとまって出土した。顕彰文の内容によれば、李君・裴君は郡学(儒教の宣布・教習を目的とした官立学校)を振興し、善政を敷いたとされる。先行研究に指摘されるように、この時期、豪族(大姓)は積極的に儒教を習得し、官吏・地方知識人の性格を強めていた。学術を習得する場では門生故吏や同門関係が形成された。成都に設けられた官学は史料上、前漢武帝期の蜀郡太守・文翁に帰せられ、その文教政策は四川の文化水準を引き上げたとされた。
    しかし、東御街漢碑の題名を精査すると、立碑者の大部分は学術教授官であり、その姓種は『華陽国志』に蜀郡の大姓として挙げられるものだけでなく、近隣諸郡の大姓と同姓となるものが多く含まれる。このことは郡内の大姓に限らない人的結合を示し、地方長官との公的主従関係と重層する私的関係、かつ遊学を介して同郡内に限られない結びつきが存在したと想定される。その延長上には地方志編纂に現われた郷里意識に繋がる地域的結合を見通すこともできる。四川地域にとり、儒教をはじめとする政治・学術文化は国家権力により外部から移入されたものであったが、それによって出現し、成長した知識人たちの結びつきはむしろ帝国に対して遠心的作用を生み出したと考えられる。
  • 『延喜式』陵墓歴名の分析を手がかりに
    二星 祐哉
    2019 年 128 巻 12 号 p. 33-61
    発行日: 2019年
    公開日: 2021/09/02
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    『延喜式』陵墓歴名には、天皇やその近親者など計百二十の陵墓が列挙されている。特に『弘仁式』墓歴名の配列や陵墓歴名の成立をめぐって、新井喜久夫氏と北康宏氏の両説が対峙している状況である。そこで本稿では、『延喜式』陵墓歴名から『弘仁式』部分を抽出し、その配列方針を検討することで、陵墓歴名の成立時期や作成目的について考察した。
    原陵歴名には、天皇陵の他、天皇の生(祖)母、即位天皇に準じて扱われた天皇の父や諸皇子女、先例となる伝承をもち、かつ王位をつぐ可能性の高かった人物の墓などが存置順に配列されていた。その成立時期は、生母墓や先例となる伝承をもつ皇子墓の編入の初例が見られる欽明朝であった。原陵歴名とは、皇位継承の正統性を保証するために、国家的な守衛の対象となった陵墓を管理するために作成された台帳であった。
    大宝令が施行されると、原陵歴名は天皇陵のみを記載する陵歴名と、それ以外の墓を記載する墓歴名に分化された。その墓歴名には、天皇の生母(三后)、天皇号を追尊された人物、先例となる伝承をもつ人物の墓などが存置順に配列されていた。大宝令施行後の陵墓歴名には、荷前陵墓祭祀の対象陵墓を管理するための台帳としての性格が新たに加えられた。また、八世紀半ばころから、血縁意識が高まり、三后や天皇の父の陵墓が陵歴名に加えられ、桓武朝には外祖父母の墓が墓歴名に編入されるようになった。こうした律令陵墓制の変質をうけ、陵墓歴名は『弘仁式』墓歴名で再編されることとなり、また『延喜式』陵墓歴名に受け継がれた。
    以上のことから、『延喜式』陵墓歴名には、六世紀初頭以降の政治過程や皇位継承をめぐる状況がかなりの確率で残されていたことが明らかとなったと言える。
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