史学雑誌
Online ISSN : 2424-2616
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129 巻, 2 号
選択された号の論文の4件中1~4を表示しています
  • 2020 年 129 巻 2 号 p. Cover1-
    発行日: 2020年
    公開日: 2021/09/09
    ジャーナル フリー
  • 2020 年 129 巻 2 号 p. Cover2-
    発行日: 2020年
    公開日: 2021/09/09
    ジャーナル フリー
  • ジェンキンズの耳戦争期のブリテンにおける政治的言説の再検討
    薩摩 真介
    2020 年 129 巻 2 号 p. 1-36
    発行日: 2020年
    公開日: 2021/09/09
    ジャーナル フリー
    英西間の一七三九年のジェンキンズの耳戦争に対しては、ウォルポール政権を批判する野党のプロパガンダ・キャンペインとそれに煽られた世論が引き起こした戦争という見方が早くから存在した。そのため、スペインの沿岸警備隊によるアメリカ海域でのブリテン商船拿捕問題などをめぐるこの時期の政治的論争も、しばしば戦争原因の探求という文脈の中で扱われてきた。また近年では、ウィルソンの研究のように、議会外集団の政治参加のあり方を探る政治史的観点からも分析されている。しかし、本論文ではこの時期の議論を、近年の財政軍事国家論の進展を踏まえ、十八世紀半ばのブリテンにおける軍事力、とくに海軍力の行使を正当化ないし批判するロジックの解明という新たな観点から分析する。
    使用した主な史料は、新聞・パンフレット類などの出版物、および議会討議録であるコベット『議会史』である。本論文ではこれらを用いて、拿捕問題が議会で論じられ始めた一七三七年から、ジェンキンズの耳戦争がオーストリア継承戦争に合流する四〇年末までの時期について、従来十分検討されてこなかった政権側の議論も含め、また議会外の出版物と議会内の議論も照合しつつ、政治的言説の内容と変化を精査した。
    分析を通じて明らかになったのは以下の点である。すなわち、与野党双方ともスペインとの戦争を正当化ないし批判するに際し、商業利害を中心としながらも、それに留まらない地主層を含む幅広い経済的利害の擁護を主張の根拠として援用していたこと、陸軍と異なり海軍自体は批判の対象にはならなかったものの、コストに見合うその有効な活用法をめぐって、政権の「腐敗」とも結び付けられて批判が展開されていたこと、そして政権側の反論を封じる過程で、野党側が「航海の自由」を通商国家ブリテンにとっての妥協の余地なき権利として祭り上げ、さらに開戦後には、それが政権側によっても戦争の大義名分として主張されるに至ったということである。
  • 行政における「公論」の展開
    袁 甲幸
    2020 年 129 巻 2 号 p. 37-72
    発行日: 2020年
    公開日: 2021/09/09
    ジャーナル フリー
    本稿は、明治前期に広く展開されていた府県庁「会議」(各部課署係の正副長ないし一般属官を構成員とし、議会的な議事規則を用いて府県内の重要事案を審査する諮問機関)を対象に、府県行政における意思形成過程の一端を解明することを通じて、近代国家形成期における「公論」の変容過程を考察したものである。
    廃藩置県後、府県庁内の官吏と区戸長・公選議員とが交わる「官民共議」的な地方民会が一時に現れたが、公選民会の発達により官吏は徐々に除外された。しかし官側にも、意見集約の場と、対等な議論による意見形成の経路が求められていたため、明治ゼロ年代末から明治十年代初頭にかけて、多くの府県で「会議」が創出された。「会議」の誕生経緯、規則、および議事録からは、「会議」が府県行政、特に議会の議案審査など対議会事務において大きな役割を果たしていたことが指摘できる。府県会が成立したにもかかわらず、議会式な意思形成経路が行政内部に存続しつづけた理由は以下の二点が挙げられる。一つ目は、官僚制内部の階級差や専門性の分化がまだ希薄だったため、行政内部においても対等な議論および議論による意見集約が比較的に達成しやすかったということ、二つ目は、「会議」を構成する属官層が、その出自・教育背景に由来する「公論」観、すなわち「公論」とは「賢明」で「公平無私」な人物の「衆議」によって形成されるものだという認識に基づき、地域利害を反映する議会と異なる役割を自覚していたことである。その後、地方官官制の整備につれ「会議」は上層部のみの部局長協議会へと収斂されていったが、議会制の危機あるいは新たな課題に応じ、「会議」が再び姿を見せることも屢々あった。
    このように明治前期においては、行政における「公論」が、「民」側の民会・府県会と、「官」側の府県属官層によって支えられていた「会議」と、すなわち「官」「民」双方の「衆議」で棲み分ける形により、異なる側面の「至当性」を確保しようとしていたと捉えることができるのである。
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