史学雑誌
Online ISSN : 2424-2616
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130 巻, 1 号
選択された号の論文の4件中1~4を表示しています
  • 2021 年 130 巻 1 号 p. Cover1-
    発行日: 2021年
    公開日: 2021/09/16
    ジャーナル フリー
  • 2021 年 130 巻 1 号 p. Cover2-
    発行日: 2021年
    公開日: 2021/09/16
    ジャーナル フリー
  • 1990-91年の域内交渉過程を中心に
    藤澤 潤
    2021 年 130 巻 1 号 p. 1-35
    発行日: 2021年
    公開日: 2022/01/20
    ジャーナル フリー
    本稿は、1990年から91年にかけてのコメコン改革ないしはコメコン後継組織の設立をめぐるソ連の方針とコメコン内の交渉過程について分析したものである。コメコンに関する研究史では、この時期のコメコン内の動向を扱った研究はほとんどなく、1989年の「東欧革命」以降、コメコンは自然消滅したとする見方が今なお有力である。これに対して本稿は、旧ソ連・東ドイツのアーカイヴ史料をもとに、この時期のコメコン内の交渉過程を実証的に分析し、以下の結論を得た。
       1990年以降のコメコン改革をめぐる交渉で、当初、ソ連はコメコンの枠内で経済統合を進めようとしたが、中欧3国(チェコスロヴァキア、ハンガリー、ポーランド)の反対を受けて大幅に譲歩し、協議を主目的とする権限の弱い国際経済関機構(OMES)をコメコンの後継組織として設立することに同意した。しかし、コメコンには欧州域外の国々も加盟しており、とくにキューバが非欧州加盟国に対する特別の配慮を求めてOMES規約案に反対し続けたことから、合意形成は遅れた。最終的に、1991年2月初頭には全ての加盟国がOMES規約案への調印に同意したものの、その直後に中欧3国は欧州共同体との個別交渉を優先することを決定し、非欧州諸国がOMESに参加することを理由に規約案への同意を撤回した。この中欧3国の方針転換の結果、コメコンは何らの後継組織を残すことなく解散した。このように、コメコンは求心力を失って自然消滅したのではなく、欧州情勢の急変やそれに伴う加盟国の方針の変化、さらには非欧州加盟国との関係などが複雑に絡み合って解散へと行きついたのである。
  • 農林省と広域農業政策への道程
    村瀬 啓
    2021 年 130 巻 1 号 p. 39-65
    発行日: 2021年
    公開日: 2022/01/20
    ジャーナル フリー
    戦間期の帝国日本において、朝鮮総督府や満洲国といった外地政府は中央政府(内地政府)の介入を拒絶するほどの自律性を持ち、内地政府はそれらの外地政府に影響力を及ぼし、あるいは交渉することを繰り返し試みた。帝国日本におけるこうした内外地間の政治過程についてはある程度の研究蓄積があるものの、大恐慌の克服とブロック経済の構築のため、外地政府との協調の重要性が増した満洲事変後の政治過程については、未解明の部分が多い。本稿は、1930年代において内地政府が朝鮮総督府および満洲国と交渉し、帝国大の経済政策を形成する過程を検討するものである。分析に際しては、特に激しい利害対立が内外地間で見られた農業政策に注目する。したがって本稿は、内地政府のうち農林省が植民地政府と展開した交渉の過程を跡づける。
       1930年代前半、農林省はまず朝鮮総督府との米穀統制をめぐる対立に直面した。恐慌下で米価の低落に喘ぐ農村を擁護するために、農林省は朝鮮からの米穀移入を抑制しようとした。しかし結果的には、農林省の試みは朝鮮総督府の強い反対と拒否権の前に挫折することになる。農林省にとって、総督府との二者間交渉によって自らの主張を通すことは困難だったのである。
       他方で農林省は、満洲国に対しては自らの利害を主張することができた。まず農林省は、日満産業統制委員会における満洲開発政策の形成に参画した。同委員会は商工省や資源局といった複数の省庁によって構成されており、それゆえに農林省は多省間調整が可能であった。さらに農林省は、満洲産業開発五ヶ年計画の策定にも参加することができた。
       こうした過程を経て、農林省は満洲国との協調関係を構築していった。日中戦争が勃発すると、農林省はこの協調を基に、自らの利害を盛り込んだ帝国大の農業政策を構築し始めるのである。
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