史学雑誌
Online ISSN : 2424-2616
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130 巻, 8 号
選択された号の論文の5件中1~5を表示しています
  • 2021 年 130 巻 8 号 p. Cover1-
    発行日: 2021年
    公開日: 2021/11/03
    ジャーナル フリー
  • 2021 年 130 巻 8 号 p. Cover2-
    発行日: 2021年
    公開日: 2021/11/03
    ジャーナル フリー
  • 『嶽麓書院藏秦簡』を手掛かりに
    椎名 一雄
    2021 年 130 巻 8 号 p. 1-36
    発行日: 2021年
    公開日: 2022/08/20
    ジャーナル フリー
    秦漢時代を対象とする歴史研究において、郷里社会における人的結合を究明することは、当該時代の特質を描きだすとともに秦漢国家形成論にもつながる重要な課題である。従来の主な議論では、任侠や爵制あるいは血縁や地縁が着目されてきた。本稿では、諸研究の成果を踏まえ、出土文献や編纂史料を分析し、犯罪者およびその犯罪者を救わんとする者の関係を構築する原理を明らかにして、秦の統一国家形成と関連づけた議論を行う。
     第一章では、『睡虎地秦墓竹簡』『嶽麓書院藏秦簡』『二年律令』に抄録される法律条文から、犯罪者およびその犯罪者を救わんとする者の関係を確認し、親属と「所知」二つの人的関係を指摘する。また、犯罪者およびその親属と「所知」には強い人的結合が存在したことも確認する。
     第二章では、国家が法律条文において、危機に瀕した者を救済する資格を、その親属と「所知」のみに認めていたことを指摘する。その上で、『嶽麓』で親属と「所知」を並記する構造が、『墨子』にもみえることを確認する。
     第三章では、墨家の影響を受ける『呂氏春秋』や任侠を称賛する司馬父子による『史記』から、命を賭して報恩に至る人的結合に、「知」が不可欠な要素と認識されていたことを確認する。その上で『嶽麓』には、秦墨や任侠的風潮の色濃い地域への秦の進出が影響していたことを指摘する。
     第四章では、秦の法律文書には、「知」にもとづく関係を国家の支配に利用する施策が内包されていたことを確認する。また、その「知縁」とも呼ぶべき人々と親属で構成される小型の集団を、国家が社会の基盤として認識していたことを指摘する。
    秦の東方や南方地域の郷里社会には、親属と任侠的習俗にもとづいた「知縁」で構成される小型の集団が存在した。秦はその小型の集団を維持・再生産する施策を通し支配の正当性を獲得し、その構成員や郷里社会の維持や再生産にまで及ぶ支配構造を構築していたことを論じる。
  • 第一次伊藤博文内閣における陸軍紛議を中心に
    塚目 孝紀
    2021 年 130 巻 8 号 p. 37-61
    発行日: 2021年
    公開日: 2022/08/20
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    1885年12月22日に創設された内閣制度は、その根拠法令たる内閣職権で首相に法令・命令(勅令)への副署義務を課すことを通して、「大宰相主義」と呼ばれる強い権限を与えていた。これは、内閣職権の後に制定された公文式でも確認されたが、公文式はこれに加えて法令の起案主体を内閣と規定したことで、執政における大臣責任制と君主無答責をより一層明確にしていた。
     首相権限が強力な形で制度化されていた一方、内閣制度創設に際し軍備編成の規模をめぐって軍部大臣人事が問題となっており、内閣制度創設後も伊藤博文首相・井上馨外相・松方正義蔵相など文官閣僚と大山巌陸相ら陸軍主流派との間で軍備構想の相違が見られた。
     かかる中で、大山陸相ら主流派が主導して進めた陸軍武官進級条例・陸軍検閲条例改正に対し、反主流派の四将軍派が定年進級の導入や検閲機関としての監軍部廃止を問題視し、主流派と四将軍派との間の陸軍紛議に発展する。軍備構想の点で四将軍派に近いと思われていた伊藤首相であったが、陸軍紛議に際しては中立的に振る舞い、大山陸相に対しては二条例の早期改正要請を副署権限を根拠に保留しつつ、陸軍主流派や文官閣僚の動向を待った上、主流派と四将軍派、及び四将軍派に親近感を有していた明治天皇の主張をそれぞれ容れた形で最終的な裁定を行った。
    陸軍紛議によって伊藤首相ら文官閣僚は陸軍主流派の軍備構想を受容したが、伊藤首相はまた陸軍に対して優位性も示していた。これに加え、伊藤首相が内閣―陸軍省と明治天皇との間を調停し、明治天皇もその判断を裁可したことを通じ、大臣責任制と天皇の無答責の君主としての役割が明らかとなった。陸軍紛議の処理は内閣職権・公文式に規定された首相の法律・命令(勅令)の副署義務を課していたことに拠るものであり、同時にステークホルダーの選好の明確化を待って政治的決定を行う伊藤首相の政治指導の特徴を明瞭に示すものであった。
  • 一八八〇年代後半のフランスにおけるヴィクトル派の展開
    湯浅 翔馬
    2021 年 130 巻 8 号 p. 62-85
    発行日: 2021年
    公開日: 2022/08/20
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    ボナパルティスムとブーランジスムの関係は、しばしば両者の政治文化的な類似性が指摘されてきた一方で、ブーランジェ事件下のボナパルト派に関する研究は少ない。本論文は、ヴィクトル派という当時のボナパルト派内の多数派集団に着目し、フランス右翼史の画期とされるブーランジェ事件に対峙した時期のボナパルト派の実態解明を試みた。
     1880年代後半のヴィクトル派内では、王党派と帝政派の議会グループ「右翼連合」を支持するポール・ド・カサニャックと、これに反対するロベール・ミシェルの間で激しい対立が存在した。この対立により、セーヌ県では帝政派コミテという下部組織が乱立し、カサニャック派とミシェル派に分かれて激しく対立する事態に陥った。1888年春、ヴィクトル公と中央コミテが統制を図った結果、セーヌ県のヴィクトル派組織は、対立の一方で完全には分裂していないという状況で、ブーランジスムの高揚に対峙することになる。
     1886年から、急進共和派の改革将軍・対独復讐将軍として台頭したブーランジェに対し、ヴィクトル派内には批判や擁護など様々な見解が見られた。1888年以降、王党派から資金援助を受けながらも、急進共和派の一部を前衛とする反「議会共和政」運動としてブーランジスムが展開するなかで、多くのヴィクトル派は「帝政再建」を棚上げにして、改憲運動に参加していく。しかし、ヴィクトル派指導者層の言説や帝政派コミテの運動の分析からは、ブーランジスムへの対応について、党派内で一貫した方針や運動は存在しなかったことが明らかになった。
    ブーランジスム敗北後の組織再編を経て、ボナパルト派は「帝政」ではなく「人民投票」を標語にしたものの、共和政へのラリマンが進展していく。かくして、1880年代前半から展開していた、帝政を支持する思想・運動としてのボナパルティスムの解体が、ブーランジスムを通じて加速するのである。
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