本稿は、日中戦争勃発の前後に当たる一九三六年末から一九三八年における国策研究会と大蔵公望の動向について、主に同会の会誌や大蔵日記を元に検討し、以下のことを明らかにした。
国研について、第一に、国研の積極的な政治協力が見られるのは第一次近衛内閣期からであり、第二に、それが戦時政策・「革新」政策への民間の意向を把握し政策の実現や妥協を円滑に進めるための役割を担ったこと(「民智総動員」)、第三に、一方で前身の国策研究同志会から唱えられていた指導精神としての「国策」樹立には成功しなかったことである。
大蔵について、大蔵は個人の動向としても国研の掲げる「国策」研究を通じた「挙国一致」実現の方針に忠実であり、特定の政治勢力に与しない中立的傾向を持ち、関係各方面からの意見聴取や国研での集団的検討を元にした政策立案・提供に専念していた。反面、政局への関心や情報把握は弱く、通説的には宇垣側近とも見なされるものの、宇垣をめぐる政局への関与も政策提供以外にはほとんど確認できない。
以上の実証的成果を踏まえ本稿では、当該期の国研が官僚出身者や利害関係者(例えば統制経済下の財界人)など〝実務家層〟を中心とした、戦時政策の立案・遂行を円滑化する「官民一致」の調整機関としての機能を獲得したと評価した。国研の「挙国一致」的志向や中立性については、従来筆者や高杉洋平氏の研究により指摘されていたが、これにより、その性格が戦時体制の開始時期においていかなる役割を得たかが明らかになった。
また、これを元に、総力戦体制における統制政策や国家総動員の立案・遂行過程、あるいは近年再評価されつつある戦時議会が持った重要性の軽重について、国研が有用な検討対象となり得ることを展望として示した。
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