史学雑誌
Online ISSN : 2424-2616
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131 巻, 9 号
選択された号の論文の5件中1~5を表示しています
  • 2022 年 131 巻 9 号 p. Cover1-
    発行日: 2022年
    公開日: 2022/10/26
    ジャーナル フリー
  • 2022 年 131 巻 9 号 p. Cover2-
    発行日: 2022年
    公開日: 2022/10/26
    ジャーナル フリー
  • 顧 明源
    2022 年 131 巻 9 号 p. 1-20
    発行日: 2022年
    公開日: 2023/09/20
    ジャーナル フリー
    本稿では、妙心寺派が対馬に流入する経緯を明らかにした上で、偽使派遣などの朝鮮通交を下支えする勢力としての実態を検討し、対馬における妙心寺派の展開過程を歴史的に位置づけたい。
    一九八〇年代後半以降、日朝関係史において「偽使」研究が大いに進展し、十四世紀末期から十七世紀前半の日朝関係は「偽使の時代」とも評価された。特に、十五世紀中頃以降、対馬宗氏は偽使派遣体制による日朝通交の貿易権を独占するに至った。こうした状況下、宗氏の偽使派遣に携わる人的基盤であった禅僧勢力にかかる研究が蓄積されてきているが、『右武衛殿之使朝鮮渡海之雑藁』など三つの朝鮮渡海日記の記主とおぼしき「天荊」という対馬の外交僧、および彼が所属する妙心寺派と対馬とのかかわりを追究する研究は不十分であり、検討の余地が残されている。
    第一章では、妙心寺派の対馬への流入の背景には、十五世紀後半、宗氏が幕府・将軍への接近の結果、対馬僧と京都との関係が深くなったことがあるとした。そして、十六世紀前半、対馬出身の禅僧が京都妙心寺で修行したことを契機として、妙心寺派が対馬に流入していく過程とその展開の大筋を明らかにした。
    第二章では、天荊に注目し、妙心寺派僧の語録と対馬に残る史料をあわせて分析し、天荊と三玄宗三という対馬豊崎郡出身の妙心寺派僧は同一人物であったと結論付けた。そして、より視野を広げ、十六世紀後半、朝鮮・対馬・京都と妙心寺派との関係を検討し、天荊=三玄に代表される妙心寺派僧のネットワークを通して、朝鮮・対馬・京都を結ぶ人・物・情報の交流がなされていたことを明らかにした。
    以上の考察および近年の研究動向を考え合わせると、戦国期、地域権力と結びついて大いに発展した妙心寺派は、臨済宗幻住派とともに十六世紀前半から、対馬との関係を構築し、対馬の外交僧を輩出し、対馬の偽使派遣を支える人的基盤となっていたといえる。
  • 対清通信利権をめぐる逓信省の積極化
    望月 みわ
    2022 年 131 巻 9 号 p. 21-46
    発行日: 2022年
    公開日: 2023/09/20
    ジャーナル フリー
    本稿は、研究史上十分に取り上げられてこなかった在清日本郵便局のあり方を、日清戦争後の日本の対清政策と関連づけて検討する。この在清郵便局を管轄していたのは、逓信省である。本稿は、在清郵便局を通信利権として捉え、これを運用する逓信省が対清政策に積極化していく過程を明らかにする。
    在清郵便局は、上海郵便局を嚆矢として各地に設置された。日清戦争以前の在清郵便局は、設置地への勢力伸長を狙ったものではなく、上海と朝鮮半島が重視されていた。また、領事館に依存した運営体制が確立した。
    日清戦争後、清が郵便事業を開始すると、総税務司R.ハートは外国郵便局の業務を規制し、以降日本は在清郵便局をめぐって清の郵便行政と対峙することとなる。日本側では、居留民の請願と領事の要請により、華中・華南へ郵便局が設置された。このような在清郵便局の増設は政府の対清政策に則っていたが、一方で逓信省は清国の郵便行政への介入を構想し始める。しかしこれは、省内で具体的な方針として確立したわけではなかった。
    このような状況は、北清事変を契機に大きく変化する。逓信省は軍事行動の延長として、華北・東北地域へ在清郵便局を設置するとともに、在清郵便局の運営を領事館から自立させていった。さらに、下村宏北京局長は、清国郵便行政への介入策を対清政策として具体化した。
     1903年、日清間の郵便問題を解決すべく「日清郵便仮約定」が締結された。この条約の内容は、逓信省の意向を反映して在清郵便局の存在を前提として業務内容に限定されていた。在清郵便局の正当性という根本的な問題は議論されなかったのである。
    このように、逓信省は軍事行動の延長で在清郵便局を設置・拡充し、曖昧な条約を根拠として利権を拡大していく方針をとったが、これは列強との協調関係を重んじる外務省との間に軋轢を生んだ。以上のように、逓信省は外務省から自立し、対清通信利権獲得に積極化していったのである。
  • 山本条太郎の無任所大臣・国策審議会構想を中心に
    十河 和貴
    2022 年 131 巻 9 号 p. 47-73
    発行日: 2022年
    公開日: 2023/09/20
    ジャーナル フリー
    戦前日本最後の政党内閣である犬養毅内閣は、「各省割拠」を統合するべく国策審議会の設置を計画した。だがこうした制度的統合機能は、本来政党内閣に必要のないものであった。同一の政見をもつ政党員で内閣を構成することで、明治憲法体制の割拠性を克服できると考えられていたからである。
    本稿は、政党が統合主体となるための「条件」であった「政党化」による統合方針が挫折し、「各省割拠」が顕在化するなかで、戦前日本の二大政党の一翼である立憲政友会が、制度的統合へと転換せざるを得なくなる過程とその必然性を解明するものである。その際の補助線として、山本条太郎の行政改革構想という分析視角を用いる。
    高橋是清内閣期の政友会は、事務の「能率増進」を目的に省を増設するとともに、「政党化」と行政整理を断行するという統合方針を示した。ところが、加藤高明内閣で確立された「政務・事務の区別」の原則はこの方針にとって障害となる。田中義一内閣は、国務大臣を中心とする「責任政治」の原則のなかで統合を模索したが、当該期に激化した「党弊」批判を前に、政友会は統合方針の転換を迫られた。
    そのため犬養総裁下の政友会では、事務官の身分保障を前提とした統合方針への転換がみられる。また、「国務大臣の行政長官化」が進行し「各省割拠」が問題化するなかで、省廃合により統合を容易化する試みがなされ、それは反対党である第二次若槻礼次郎民政党内閣の行政改革構想とも共鳴するものであった。
    だが、省廃合断行を試みた若槻内閣は、まさに「国務大臣の行政長官化」の構造により挫折する。ここにおいて、政友会は国務大臣中心の統合を断念し、制度的統合へと転換する。それは「憲政常道」を前提にしながらも「責任政治」とは異なる統合論理に立脚した構想であり、政党内閣を要請する蓋然性を低下させるものであった。以上から、政党政治と挙国一致内閣期の結節点として国策審議会を位置づけた。
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