史学雑誌
Online ISSN : 2424-2616
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134 巻, 2 号
選択された号の論文の5件中1~5を表示しています
  • 2025 年134 巻2 号 p. Cover1-
    発行日: 2025年
    公開日: 2025/03/26
    ジャーナル フリー
  • 2025 年134 巻2 号 p. cover2-
    発行日: 2025年
    公開日: 2025/03/26
    ジャーナル フリー
  • 検閲基準としての「芸術性」
    藤井 なつみ
    2025 年134 巻2 号 p. 1-41
    発行日: 2025年
    公開日: 2026/02/20
    ジャーナル フリー
    本稿では、大正期東京の演劇検閲の変容を、当時の警視庁の演劇検閲に出現した「専門家」検閲官の存在に注目し、その背景にある時代状況の変化、特にデモクラシー状況への警察の対応のあり方などをふまえ検討した。
    大正前期、演劇界では脚本の「芸術的価値」に無理解な検閲への批判が高まると、「警察の民衆化」を掲げていた警視庁はそれに応え、一九一八年以降、芸術に見識を有するとされる検閲官を採用、以後演劇検閲官の「専門家」化が進行する。彼らが演劇関係者と検閲をめぐる「交渉」の場を設けたことは、従来の一方的な態度からの転換として期待されたが、社会秩序の維持という検閲の第一目的は堅持され、あくまでその手段として、芸術の理解や「交渉」を行ったという背景から、演劇関係者と異なる価値判断基準で演劇を評価する姿勢に根本的な変化はなかった。
    そこで演劇関係者側は、演劇検閲の諮問機関を設置し、演劇・芸術関係者が参加することで、「芸術を解さない」検閲官による検閲の是正を目指し、一九二二年から行われた演劇改善運動の中で、諮問機関の設置を警視庁に対して要求する。警視庁は、要求への歩み寄りを示すとともに、芸術性を加味した検閲の実施を宣言するが、それは、従来風俗警察的観点から行われてきた検閲処分を、芸術性を基準にしたものと説明することで、その検閲処分に対する芸術家からの批判を封殺する機能を持つものでもあった。諮問機関構想は関東大震災によって消失するが、デモクラシー状況の高まりによる演劇関係者の運動と、警視庁の歩み寄りが、検閲範囲の拡張を呼び込んだのである。
    以上本稿では、大正期警視庁の演劇検閲に出現した「専門家」検閲官が、デモクラシー状況に対処しつつ適切な統治を行うための存在であったこと明らかにし、昭和戦時期の「専門家」検閲官のような、芸術的価値を基準に検閲を行う検閲官とは大きく異なる存在であったことを提示した。
  • 室町期を中心に
    佐藤 拓海
    2025 年134 巻2 号 p. 42-66
    発行日: 2025年
    公開日: 2026/02/20
    ジャーナル フリー
    室町期越後の支配体制をめぐっては、守護代を務めた長尾邦景と、邦景の息子長尾実景の動向が注目される。長尾邦景・実景父子の動向について、かつては室町幕府と直接結びつき、越後守護上杉氏と対立するなかで台頭した、と理解されてきた。一方近年では、こうした守護・守護代を対立的に捉える見方にとらわれない成果も出されつつある。したがって本稿では、室町期における越後守護代長尾氏と室町幕府・越後守護との関係について、全面的に再検討を行い、越後守護代長尾氏の権力形成過程を明らかにすることを目的とした。
     本論では、足利義満・義持期、足利義教期、嘉吉の変後の3時期に区分して、越後守護代の変遷を検討した。応永年間後半、守護代長尾邦景は、越後守護上杉氏の動向に伴って上杉氏家中における立場を高めていき、そして応永末年に発生した内乱である越後応永の乱を経て、一国にわたる守護代として活動するようになる。足利義教期には、邦景は越後における守護の職務を幕府から委任されるが、これは越後守護上杉房朝が幼少であった時期において守護の職務を代行する、一時的な措置であった。また、義教期には邦景の息子長尾実景が在京し、幼少の房朝を後見していた。そして嘉吉の変後も、邦景・実景父子は引き続き房朝の下で守護代・守護代代行として、分国支配の中核を担った。
    以上の検討から、室町期の越後守護代長尾氏は、守護と対立するのではなく、守護を支えるなかで発展してきたことが明らかになった。
  • 勧農義社を事例に
    桑田 翔
    2025 年134 巻2 号 p. 67-91
    発行日: 2025年
    公開日: 2026/02/20
    ジャーナル フリー
    本稿では、明治一〇年代における官民の産業振興への志向を考察できる素材として、藤田一郎という人物により全国的に推進された、勧農義社構想の展開を扱った。勧農義社は農業を中心に諸事業への融資を企図していたが、藤田は士族授産のような社会政策的な志向も有しており、事業の安定的な利益への関心は必ずしも強く無かった。そして、明治一〇年代における政府の重要課題は、産業振興や士族授産、或はそれらを通じた民権運動対策であり、勧農義社はこうした課題解決に貢献し得た。藤田は岩倉具視らの熱心な協力の下、一時的とはいえ参議、薩派など政府内の主要な政治勢力からの支持を獲得し、大隈重信や松方正義のような経済政策への影響力が強い高官の協力も得て、勧農義社への政府補助獲得を目指した。しかし、明治一四年には、大隈も巻き込んだ政府内外の政治的対立が激化し、政府補助の獲得には失敗した。官僚との関係では、省創設後から産業政策を主管した農商務省の官僚の協力が注目される。
    また、地域における勧農義社の組織化の実態は、従来殆ど不明であったが、基本的に出金者を指す「社員」数の府県別数値の整理により、東日本の方が盛んであったと分かった。そして、長野・福井県の組織化の事例分析を通じ、組織化進展の要因として行政の支援、各地の既設の事業社の協力、民権派まで含む幅広い協力を挙げた。藤田の運動は政府高官への依存度が大きく、政府と民間の意思を疎通する諸制度が整備された明治二〇年代には、政治的な影響力を低下させた。とはいえ、本稿で明治一〇年代における、全国的な産業振興運動の代表例の一つとなり得るような分析を行えたことは、当該期の包括的な産業振興運動の特徴付けや、以降の時期への接続においても有益である。
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