本稿は、主として初期議会期における緊急勅令(大日本帝国憲法(以下、憲法)第8条)の運用とそれに対峙した議会政治の展開を、同時期の藩閥―政党間対立に即して検討した。
憲政史上初の緊急勅令として発せられた、大津事件(明治24年5月)発生直後の言論統制を目的とする明治24年勅令第46号(以下、勅令46号)は、藩閥政府追及の一大焦点となった。民党の筆頭たる自由党・立憲改進党は、事件発生当時こそ勅令46号発出の必要性を認めたものの、第2・第3議会では一転してそれを否定、不承諾とすることを主張し、かつ責任内閣論などの憲法論を持ち出すことによって勅令発出は第1次松方正義内閣の引責辞職に値するとした。
しかしながら両党の勅令46号不承諾論は、倒閣という政治目標に傾斜する余り合理性を欠く嫌いがあり、特に自由党のそれは、もし松方が首相を辞職すれば党として承諾に転回しうるというほどに権力的動機を孕むものだった。結果、同勅令は第2議会で審議未了となるも、第3議会(衆議院)では圧倒的多数をもって不承諾に決し、第1次松方内閣の信任問題にまで発展した。
かかる藩閥政府の経験は日清戦争下の明治27年、第2次伊藤博文内閣によって、廃止緊急勅令(以前に発出された緊急勅令を廃止するための緊急勅令)の発出と緊急勅令の議会不提出という、憲法第8条の新たな運用を導く。そしてかかる運用は明治30年初頭、第10議会で政府によって公然と正当化されるに至ったのである。
このように初期緊急勅令は、藩閥―政党間対立を助長するとともに、天皇主権原理に裏打ちされた行政権優位の立憲君主制の展開を一面で促したということができる。
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