史学雑誌
Online ISSN : 2424-2616
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134 巻, 8 号
選択された号の論文の5件中1~5を表示しています
  • 2025 年134 巻8 号 p. Cover1-
    発行日: 2025年
    公開日: 2025/10/03
    ジャーナル フリー
  • 2025 年134 巻8 号 p. cover2-
    発行日: 2025年
    公開日: 2025/10/03
    ジャーナル フリー
  • 緯書の形成過程をめぐって
    三浦 雄城
    2025 年134 巻8 号 p. 1-36
    発行日: 2025年
    公開日: 2026/08/20
    ジャーナル フリー
    本稿は漢代儒教史研究を推進してきた儒教国教化議論を踏まえ、呪術的な主宰者としての天と理法的・機械的な自然としての天の関係、それによる儒教や緯書の性格、緯書を構成する河洛緯(「河図」「洛書」を書名にもつ緯書)と七経緯(経書名を書名にもつ緯書)の関係を明らかにすることを目的とし、史料の語の内実を吟味しながら、緯書の形成過程を河洛緯や河図洛書を軸に検討した。
    後漢の初期と末期に河洛緯や七経緯が受命の書として用いられた背景には、孔子が帝王興亡の期を記録する命紀としての河図洛書を基に命紀としての七経緯を作成したとする緯書説がある。この思想は、天道を人道の根拠とする前漢儒家思想の延長にあり、この流れの中で河図洛書を『周易』や『尚書』に対応させる劉歆の思想や、孔子が天与の図録を基に『春秋』や讖書を作成したとする孔丘秘経説が生じた。聖王の受図伝説を背景に政治権力が古来符瑞であった河図洛書を受命の書として重視し、これを同説が受け入れ、緯書は命紀の体系として形成された。この意味での緯書の基本形は、建武年間の図讖校定から光武帝がこれを天下に宣布するまでの間に完成した。
    董仲舒以降の儒家の多くは、上位に呪術的天、下位に理法的天を置く重層構造の天観念をもち、平時には理法的天を重視して占星術などの正しい讖を追求したが、両漢交替期の混乱の中で呪術的天に基づく天帝の予言としての虚偽の讖を支持する者も現れた。この結果、二種の讖が緯書という一つの体系に組み込まれたのである。
    こうした緯書や儒教は『論語』に基づく孔子の思想から変質したものと言えるが、君主の権威・権力を保証した上でその発動を儒教理想の実現に向けるためには必要な変質であった。儒教が初めて呪術的天を強烈に意識したであろう両漢交替期に、天命は文字によって下達されるという風潮の中、儒家が自らの意思を天の意思として、さらに孔子の顕彰運動を背景に天の意思を儒教の祖たる孔子が敷衍したものとして緯書に表明することで、大規模に行われたのである。
  • 天皇主権原理の展開
    原科 颯
    2025 年134 巻8 号 p. 37-71
    発行日: 2025年
    公開日: 2026/08/20
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    本稿は、主として初期議会期における緊急勅令(大日本帝国憲法(以下、憲法)第8条)の運用とそれに対峙した議会政治の展開を、同時期の藩閥―政党間対立に即して検討した。
    憲政史上初の緊急勅令として発せられた、大津事件(明治24年5月)発生直後の言論統制を目的とする明治24年勅令第46号(以下、勅令46号)は、藩閥政府追及の一大焦点となった。民党の筆頭たる自由党・立憲改進党は、事件発生当時こそ勅令46号発出の必要性を認めたものの、第2・第3議会では一転してそれを否定、不承諾とすることを主張し、かつ責任内閣論などの憲法論を持ち出すことによって勅令発出は第1次松方正義内閣の引責辞職に値するとした。
    しかしながら両党の勅令46号不承諾論は、倒閣という政治目標に傾斜する余り合理性を欠く嫌いがあり、特に自由党のそれは、もし松方が首相を辞職すれば党として承諾に転回しうるというほどに権力的動機を孕むものだった。結果、同勅令は第2議会で審議未了となるも、第3議会(衆議院)では圧倒的多数をもって不承諾に決し、第1次松方内閣の信任問題にまで発展した。
    かかる藩閥政府の経験は日清戦争下の明治27年、第2次伊藤博文内閣によって、廃止緊急勅令(以前に発出された緊急勅令を廃止するための緊急勅令)の発出と緊急勅令の議会不提出という、憲法第8条の新たな運用を導く。そしてかかる運用は明治30年初頭、第10議会で政府によって公然と正当化されるに至ったのである。
    このように初期緊急勅令は、藩閥―政党間対立を助長するとともに、天皇主権原理に裏打ちされた行政権優位の立憲君主制の展開を一面で促したということができる。
  • 頼朝の戦略
    木下 竜馬
    2025 年134 巻8 号 p. 72-98
    発行日: 2025年
    公開日: 2026/08/20
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    本稿は、地頭設置の政治過程を源頼朝の戦略の次元で跡づける。鍵は、武士狼藉停止と没官措置のふたつである。没官措置と地頭設置の段階差を弁別し、武士狼藉停止をA型(特定所領への武士の関与を排除するもの)とB型(特定所領における武士の所務を規律するもの)に分ける。結論からいえば、いきすぎた没官措置を解除するのがA型の武士狼藉停止であり、両者は反対の関係にある。一方、武士が特定所領内でなんらかの所職を知行することがB型の武士狼藉停止の前提であり、地頭設置とは表裏の関係にある。
    寿永三年(一一八四)正月の鎌倉方上洛以降、畿内近国では鎌倉方武士による没官措置が広範に展開し、多くの謀叛人跡が占領された。しかし、これらの地が最終的にどこに帰属するか、朝廷側と頼朝では合意ができていなかったと思われる。頼朝は、元暦二年(一一八五)二月から鎌倉殿御使を派遣し、畿内近国での武士狼藉停止(A型)を行い、鎌倉方が占拠した謀叛人跡を整理した。その狙いは、整理した謀叛人跡を地頭職のような恒久的なかたちで鎌倉方武士に配分することだと推測した。また九州では、源範頼による没官措置を推進させ、地頭職設置まで行おうとした。しかし、朝廷は同意せず、謀叛人跡の地頭職設置は伊勢のみでしか実現しなかった。ここで頼朝の構想は一旦頓挫した。しかし、文治元年(一一八五)一〇月の義経挙兵に朝廷が同調した機を捕え、頼朝は攻勢に出る。西国にもう一度大量に武士を送り、没官措置を再開した。また、伊勢以外の謀叛人跡への地頭設置も断行した。しかし、文治二年六月に奏請して局面を転換させて、没官措置を停止し、武士狼藉停止を行って、地頭設置地とそうでない地を区分した。一〇月の宣旨により、謀叛人跡地頭について公武の合意が形成されるにいたった。以上の政治過程を経て、謀叛人跡を恒久的に鎌倉方武士が知行する地頭職が確立したと考えた。
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