地球規模で起きている気候変動と連動する水問題について,私の専門分野である「環境地水学」から何が貢献できるか,また,この学は「水利科学」を含む近隣諸科学とどのように連携・協働を進めるべきかについて,私論を展開した。土壌水分では,今でも信頼しうる現場透水試験法を模索していること,浅い地下水位の上下振動についてリッセ効果,ヴィーリンゲミーア効果,逆ヴィーリンゲミーア効果などの新たな知見が加わっていることを説明した。さらに,災害や土壌汚染,放射能汚染と土壌の物理性が深くかかわること,水田の地下水位制御システム(FOEAS)が注目されていること,地球温暖化の影響を土壌呼吸速度の温度依存性から評価できること,キャピラリーバリヤーのような新技術で「環境地水学」が貢献できる課題が多いこと,などについて述べた。これらを通して,地球温暖化時代を迎えた今日,「環境地水学」が「水利科学」とともに歩む道を広げたい,との思いで小論を執筆した。
山地災害による国民の生命・財産への被害を最小限に留めることを目的として実施する「治山」は,極めて重要な国土保全施策の一つであり,その取組の歴史は長く,文献等で記録されているものとしては,江戸時代における「留山」や「諸国山川掟」による土砂流出防備に始まり,明治期における保安林制度の創設とその運用などを通じて,自然災害による被害軽減に大きく貢献してきた。一方,近年,地球温暖化の影響により,過去の観測記録を上回るような異常な豪雨が頻繁に発生している。気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第5次評価報告書においても,地球温暖化による極端な降雨がより強く,頻繁となる可能性が非常に高いことが指摘されているなど,山地災害の発生リスクは今後更に高まることが予想される。このため今後については,これまでの山地災害対策の成果を踏まえ,地球温暖化を背景とした山地災害発生リスクの一層の高まりなどに対処するため,・保全対象に被害を与えるリスク判断を踏まえた事業箇所の選定 ・生態系としての森林の機能と治山施設の機能を組み合わせた防災・減災対策の推進など,事前防災対策の充実強化を図っていくために必要な取組を柔軟かつ効果的に推進していくことが必要となっている。
平成29年(2017年)7月九州北部豪雨では,河川の氾濫に加え,土砂や流木の流出によって甚大な被害が発生した。このため,国土交通省は,発災直後より,TEC-FORCE(緊急災害対策派遣隊)やリエゾン(災害対策現地情報連絡員)を派遣するなど総力を挙げて被災地の早期復旧のための支援に取り組んできた。 本稿においては,平成29年7月九州北部豪雨等で甚大な被害を受けた河川の本格的な復旧を緊急的に進めることを目的にとりまとめた「九州北部緊急治水対策プロジェクト」,九州北部豪雨等の教訓を踏まえ,全国の中小河川の対策を緊急的に進めることを目的にとりまとめた「中小河川緊急治水対策プロジェクト」の2つのプロジェクトについて紹介する。
わが国で発生した山地荒廃の中には,細粒な表層物質の特性に起因する事例が多く見られる。近世期に西日本から中部地方で発生したハゲ山荒廃の多くは,花崗岩の風化物質で侵食を受けやすいマサ土の分布域で発生している。また,北上山地や襟裳岬で発生した風食による荒廃には凍上しやすい火山灰土の性質が大きく影響している。いずれの荒廃現象も脆弱な表層物質が森林土壌による保護を失い侵食が発生したために起きた現象である。このような脆弱な表層物質の分布情報は既存の地質図や土壌図には記載されていないが,それらの成因を考慮した地理情報の解析や,火山灰分布図からある程度推定できる。さらに,荒廃の誘因の指標となる気候値と組み合わせることで山地荒廃のリスクを事前に予測できる可能性がある。このような地理情報を活用した荒廃リスクの事前予測も今後の治山技術の重要な課題と考えられる。
近年,戦後のような大水害は減少してきたが,各地で形を変えた都市水害が発生している。都市水害は住民の生活や産業に影響をおよぼすだけでなく,交通,ライフライン,企業経営にも大きく影響している。本報ではこうした都市水害の実態を全国,個別水害を対象に考察するとともに,減災にあたっての方策を示した。都市水害で被害が多い地下鉄・地下街,ライフラインに関してはソフト対策や浸水対策を提示した。また,ソフト対策で重要な情報伝達では,緊急速報メールや各種アプリを事例紹介した。特に今後活用が期待される避難行動支援アプリについては,その構成項目や優先項目などについて詳しく説明した。ハード対策としては,地下河川や地下調節池の効果と今後の課題を示した。最後に,都市における土砂災害の実態と課題に関する考察を行った。
防災の基本は,自助・共助・公助である。自助・共助・公助を語るにあたっては,自助・共助と,公助との連携を考えることが重要である。 自助・共助は,災害に際して,単に避難をするだけではない。また,これを支援する公助も,単に公的な支援の拡充という視点で展開するのではなく,自助・共助側からの発信を受けて,これに応える形で施策を展開してゆく,真の協働のパートナーとしてとらえてゆくことが重要である。 自助・共助側からの自主的な取り組みにこそ,大きな意味と効果がある。公助の推進にあたっては,自助・共助から発信する必要性に基づく,公的な支援,公助の展開をシステム化する。 自助・共助と,公助との連携を社会システム化し,継承してゆくことが重要である。 上杉鷹山の三助,武田信玄の竜王河原宿,信玄堤の神輿練り御幸祭と三社御幸の故事から,これらの教訓をひもとき,つないでゆくことの重要性を再認識する。
本稿では,山地における森林利用と災害の歴史を通じ,森林の国土保全効果について考察した。結論の概要は次の通りである。①わが国は大規模な風水害の場合,本来1件の風水害で数千〜数万人規模の死亡者が生じる脆弱な国土であった。死亡者数は明治中期に制定した治水三法以降減少に転じ,現在は大規模な風水害でも百名を上回る死亡者は生じなくなった。現在の1件の風水害で死亡する確率は127万人に1人にまで減少しており,国土の風水害に対する安全度は史上最も高い状況にある。この風水害の克服には治水施設の完備に加え,山地の森林の充実が重要な役割を果たした。②森林伐採面積が災害量に非常に大きな影響を与えており,伐採量が50万ha/年を超えると土砂災害が顕著に増える。また,森林は濫伐すると10年後から山腹崩壊が顕著となり,伐採を 止め再植林しても20年間は止まらない。これは根系が腐朽し地盤の支持力を失う時間と,再植林した樹木の根系が崩壊防止の効果を発揮するまでに要する時間に起因する。今後の林業においても,過去の森林利用と災害の歴史を知り,国土保全と林業の両立を目指す必要がある。
今年は明治元(1868)年から150年の節目である。150年前,神戸港(兵庫港)が開港し,神戸が大都市へと急激な変貌を遂げていく。この神戸の都市化とともに,六甲山は土砂災害を繰り返し発生させてきた。また,今年は,阪神大水害から80年,昭和42年豪雨災害から50年(昨年)。六甲治山事務所も設立 50周年の年に当たる。 六甲山は,急峻な地形と脆弱な地質,山麓の狭隘な区域に集中する市街地といった特殊な条件のもと,過去から多くの大災害が発生している。近年の大災害としては,昭和13(1938)年阪神大水害,昭和42(1967)年豪雨災害,平成7(1995)年阪神・淡路大震災,平成26(2014)年台風災害が挙げられる。 六甲山系では明治26(1893)年に甲山国有林(西宮市)で山腹工(並芝工)が実施されており,これが兵庫県における最も古い治山工事の記録である。 明治35(1902)年から,生田川流域の再度山周辺で神戸市により植林事業が開始され,明治36(1903)年から兵庫県により砂防工事として山腹工が開始された。これらの植林にあたっては東京帝国大学の本多静六が深く関わっていた。 当初の治山事業は積苗工,水路張芝工,小谷止石積工などが施工され,クロマツ,ヤシャブシが植栽された。昭和13年阪神大水害を契機に,治山事業では,山腹工と山腹工直下に渓間工として,練石谷留工,練石護岸工,玉石コンクリート谷止工等が施工されるようになる。 昭和42年豪雨災害を受けて,予防的治山の対応が求められるようになった。 崩壊地は主にコンクリート土留工,コルゲート水路工,積苗工等で復旧し,渓間工は山腹工直下のほかに下流域の谷の出口付近,市街地近くに堤高10m 以上のコンクリート谷止工を施工するようになった。 阪神・淡路大震災では岩崖部の崩壊が多発し,法枠工,法切工,埋設工,土留工,谷止工等で復旧が図られた。この震災を契機に,兵庫県では地震に強い斜面崩壊防止対策としてロープネット・ロックボルト併用工法を開発した。また,震災以降,減災対策としてのソフト対策が開始される。 六甲山系では,今後,他地域より高いレベルの治山対策を進めていく必要がある。危険性の高い自然斜面に対する予防的対策,森林の防災機能を高める整備,自助・共助・公助によるソフト対策などである。 緑豊かで魅力あふれる六甲山と神戸や阪神地域の300万人の命と暮らしを守っていくためにも,六甲山の治山対策はますます重要になってきている。六甲治山事務所のこれからの50年,兵庫県の今後の150年を思い描きながら,六甲山系の治山対策に取り組んでいかなければならない。
金沢地区は神奈川県横浜市の南端部に位置し,鎌倉市と近接する東京湾に面した地域である。鎌倉幕府開設を機に,鎌倉への陸路・海路の要所となり,人物・物資の往来はもとより,幕府武将らが館を構えるなど,一気に賑わいをみせ,中世鎌倉時代から歴史的に発展してきた地域である。鎌倉〜江戸〜明治時期には,殊に,平潟湾の千変万化する風光明媚な海風景が旅人・墨客らを魅了し,全国的に人気の観光スポットとして名を馳せてきた。また,近代の戦前期頃までは,金沢の海風景をこよなく愛した政治家・文化人などが別荘・別邸などを建てて住み着き,海浜保養地としても知られていた。 このような時代的背景と変遷の下,金沢地区では,中世鎌倉時代からの貴重な歴史的構築物や遺跡・文化財などが数多く保全・伝承されてきた。その中でも主に,ここでは,歴史的な人物や遺産・遺構などと関連し,伝説・逸話・口碑などを秘めた古水や史跡水(水場や水辺も含む)にスポットを当てた探索調査を試みている。 本稿では,古き時代からの変遷と共に,地域の生活・習俗・文化等の発展史に深く係わってきた古水・史跡水・水場を「時代水」と称して着目し,先代人に纏わる利水的な遺構や関連する遺物などを中心に取り上げ,関係する人物や歴史的な時代背景などを織り交ぜて,その来歴・変遷・現状などを解説している。殊に,先代人の利水や水工に纏わる「水」への思いや発想・構想における英知・苦難などに触れることで,今後に継承すべき事柄に光を照らし,利水技術や水工物の古事来歴を顧み,再考する機会になればと願っている。