明治初頭,河川行政は水運網の構築に力点を置き,進められた。いわゆる低水工事の時代である。それが明治20年代,相次ぐ水害の頻発化と鉄道の整備によって,河川行政は高水工事を柱とするものに変わっていった。このように明治中期は,社会と河川との関係が大きく変化する時期にあたる。しかしその明治中期以降も,河川舟運は近代日本にとって必要不可欠な物流であり続けた。利根川水系もその1 つである。
千葉県では明治中期,日本鉄道土浦線,総武鉄道,成田鉄道が開通し,県北部で鉄道が整備されていったが,その少し前の1890(明治23)年,利根運河が開削された。運河開削の最大の目的・利点は,航路の短縮よりもむしろ浅瀬に悩まされていた利根川舟運網の機能回復にあった。時期的に競合した利根運河と鉄道だが,政府は新規鉄道路線の敷設願いをたびたび却下した。
利根運河50年の歴史を運河収入からみると,高位安定の20年→大きく減少する10年→少し盛り返す10年→大きく凋落する10年と総括できる。そうして利根運河は1941(昭和16)年,国有化され,その歴史に幕を閉じた。そうした歴史をたどった利根運河株式会社の経営を圧迫したのは,堤塘費,護岸費,川浚費など,運河維持管理費用である。運河開通直後の明治29年洪水に始まり,利根運河では度重なる洪水に悩まされた。発展する鉄道は利根運河にとって重要な競争相手ではあったことは確かであろうが,運河を運河として維持することの費用が,経営上大きな負担となった点も看過してはならない。いうなれば,洪水とそれに伴う運河補修費用という,「内なる敵」に負けた部分も大きいのである。
抄録全体を表示