山梨英和短期大学紀要
Online ISSN : 2433-6637
Print ISSN : 0286-2360
ISSN-L : 0286-2360
30 巻
選択された号の論文の10件中1~10を表示しています
  • 秋田 稔
    原稿種別: 本文
    1996 年 30 巻 p. i-ii
    発行日: 1996/12/10
    公開日: 2020/07/21
    ジャーナル フリー
  • 武田 武長
    原稿種別: 本文
    1996 年 30 巻 p. 1-15
    発行日: 1996/12/10
    公開日: 2020/07/20
    ジャーナル フリー
    戦後日本のキ-スト教にとって、克服しなければならない過去、清算しなければならない過去-それも日本のキリスト者にとって特別な最も深刻な過去とは何かを考えることは、いぜんとして根本問題である。これは、その日本のキリスト教の根本問題を、戦時下のドイツのキリスト教との同時代史的な比較をとおして、天皇制とのかかわりで明らかにしようとしたものである。戦後五十一年の今あらためて日本のキリスト教の過去を真攣にふりかえるならば、戦時下におかされたその罪が単に戦争協力という程度のものではなかったことは明らかである。それは、「国民儀礼」という名のもとに天皇教儀礼を受け入れ、神と並べて「天皇」と「皇国」を置いた罪、その実は「天皇」と「皇国」を神の御座の上に置いた偶像礼拝の罪であった。これは日本のキリスト教にとってまことに深刻な過去である。本来は、この過去の克服をぬきにして戦後の日本のキリスト教の再出発はありえなかったはずである。それはキリスト教会についてばかりでなく、キリスト教系学校についても妥当することなのである。
  • 荒井 直
    原稿種別: 本文
    1996 年 30 巻 p. 17-35
    発行日: 1996/12/10
    公開日: 2020/07/20
    ジャーナル フリー
    「いま私たちが普通に行っていること」を考^^ヽえ^^ヽる^^ヽ。そういうことをしてみた。現在の生活世界は、自明と見なされているにせよ違和感を伴ってであるにせよ、実際に生きられている、或は、生きさせられてしまっているので、そのままでは問題にしにくい。そこで、この生活世界で中心的な活動である 「労働」に論点を絞り、その論件を、(1)この世界とそこに適合的な人間類型の形成にあたって一つの影響を及ぼした「キリスト教文化」と(2)この世界とは異質な生活世界と異質な人間類型をもっている-と私には思われる-古代ギリシアとを媒介にして、検討してみた。この問題に取り組む限りで、マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』とハンナ・アーレント『人間の条件』を考察したが、この二著を主題として論じたわけではない。
  • 秋田 稔
    原稿種別: 本文
    1996 年 30 巻 p. 37-50
    発行日: 1996/12/10
    公開日: 2020/07/20
    ジャーナル フリー
  • 祐野 隆三
    原稿種別: 本文
    1996 年 30 巻 p. 51-64
    発行日: 1996/12/10
    公開日: 2020/07/20
    ジャーナル フリー
    日本特有の美的理念である「わび」を、従来の辞典がどのように解釈して来たのか、『古事記』をはじめ、『萬葉集』、勅撰八代集、『篁物語』『竹取物語』『伊勢物語』『土佐日記』『梁塵秘抄』『平中物語』『大和物語』『成尋阿闍梨母集』『落窪物語』『蜻蛉日記』『和泉式部日記』『堤中納言物語』『源氏物語』『更級日記』などの用例を通して検証する。そして、「わび」の用法としては、萬葉人は、素朴、純真であったために満たされない「つらい」愛の悩みを、多くの人は率直に「わび」の語に託していたように思われる。しかし、平安時代に入ってからは、愛が怨恨を生み、苦悩から諦念を導き、遂げられない恋を通して、自己の存在に眼を向けて行くようになった。したがって、「わび」は『古事記』にみられるような嫉妬・当惑といった心情の表現に用いられていた語が、萬葉人の愛の苦悩を表現する語として用いられるようになった。しかし、それが、平安時代に入ると、少しづつ「わび」の意が広がりを見せ、人生の失意や自己の不遇を嘆いたり、貧乏に苦しむ自己の姿に対して用いられる用例が表われはじめて来る。
  • 白倉 一由
    原稿種別: 本文
    1996 年 30 巻 p. 65-78
    発行日: 1996/12/10
    公開日: 2020/07/20
    ジャーナル フリー
    近世の文化の特色は日本文化史上初めて国民大衆の文化が生まれたことである。勿論支配者階級の文化もあったが、文化の中心は被支配者階級の文化であった。この文化の誕生・展開は商業資本主義の発生・展開と密接に関係している。資本主義は個人の自由を根底に持っている。近世の文化は商業資本主義の精神から生まれる。商業資本主義は全国統一的貨幣制度によって飛躍的成長・発展していった。従って近世文化の誕生の第一の条件は統一的貨幣制度である。第二は寺子屋を中心にした学校教育である。第三は出版技術の確立である。これ等はいずれも文化的条件と言い得るものである。商業資本主義の精神は日本の過去の伝統に捉われる事なく、現実的処世観から生まれたもので、純粋さ、清新さを持っていた。この精神を持った者が教育され読み書きできるようになる。この者達に文芸性豊かな日本の古典が提供された。なお指導者は古典の注釈書を刊行してその指導に当った。更に出版技術の発展に伴って、多数の当時の現代の文化的な書籍が刊行された。古典文芸・その注釈書、更に当時代文芸・啓蒙教訓吾が大衆に商品として提供されたのである。ここから国民大衆の文化が生まれたのである。
  • 川島 秀一
    原稿種別: 本文
    1996 年 30 巻 p. 79-88
    発行日: 1996/12/10
    公開日: 2020/07/20
    ジャーナル フリー
    現代社会を生きる私たちは、その<日常>にあって、自己の<身体>をきわめて無防備にさらし続けている。近代以降、幾多の夢をつむぎ続けてきた<家族>も、もはやその<身体>を横たえる場所ではありえない。人々は、宙吊り状態の中で、その<身体>を「浮遊」させ続けねばならない。あるいはまた、むき出しのままで、日常にその<身体>をさらさねばならぬ。本稿では、藤村の『家』について、<家>とその制度の中に深く拉致され抑圧される<女性>の(身体)について特に留意しながら、<近代家族>の形成されていく過程、あるいは、そこに立ち現れてくるようにみえる<個>の実体について考察した。この時、<家>という制度が単なる外在的なものとしてではなく、人々の無意識をも深く凌駕し支配したこと、いわば<近代>を支配したイデオロギー的装置として機能しつつ、それら人々の<身体>や<言葉>そのものを深く眠らせ続けたことは、すでに周知のところ。例えば、作品『家』における<他者性>の発見は、今までの自己を相対化すべき新たな<主体>と<言葉>の獲得を強く促しているように思われる
  • 小菅 健一
    原稿種別: 本文
    1996 年 30 巻 p. 89-101
    発行日: 1996/12/10
    公開日: 2020/07/20
    ジャーナル フリー
    川端康成には本人が処女作と規定している作品が、「十六歳の日記」・「ちよ」・「招魂祭一景」の三つある。それぞれの特徴や作品相互の関係、さらには、<処女作群>としての存在意義を考察していきたいのだが、本稿では、純粋な創作活動の上で最も早い時期に書かれていて、表出(表現)行為における川端康成の問題意識が顕著に表われた、「十六歳の日記」を取り上げて、"日記"や"小説"という表現形態や作品構成の問題、その延長線上にある、《作品》概念の問題などを論じていくことによって、人間が自己の体験した様々な出来事を書いていくという行為自体を考察したものである。特に、焦点を絞って分析したことは、印象深い体験を作品化したにもかかわらず、まったく記憶に残らないということが、どういうことを意味しているのかを、表現主体である<私>という存在の内部世界において繰り広げられる、対象物の受容と定着、描出に関する基本的なメカニズムの問題である。
  • 山田 吉郎
    原稿種別: 本文
    1996 年 30 巻 p. 103-113
    発行日: 1996/12/10
    公開日: 2020/07/20
    ジャーナル フリー
    吉本ばななの『キッチン』は、最後の肉親である祖母を失った女子大生桜井みかげが、その心の痛手から立ち直ってゆく過程を描いた小説であるが、その生の回復の仕方を、主人公が一時期傷心の身を寄せた奇妙な擬似的家庭(田辺親子)との関連の中で考察した。擬似的母親であるえり子の歪曲化された生の回復と照らし合わせる形で、主人公みかげの傷心からの回復の特質を分析した。その際、吉本の処女作『ムーンライト・シャドウ』や彼女と同時期に話題をまいた俵万智短歌との関連、さらに性差や身体感覚、ボーダーレスなど今日的な文化現象とのつながりを視野に入れて展望を試みた。
  • 住谷 雄幸
    原稿種別: 本文
    1996 年 30 巻 p. 115-128
    発行日: 1996/12/10
    公開日: 2020/07/20
    ジャーナル フリー
    わが国では、多くの名山・高山は修験者によって開山された。江戸時代に入り、講社がつくられ、信仰登山は庶民の間に広まった。宗教的な登拝だけでなく、高山に登り、その霊気にふれ、雄大な眺望を楽しむ風潮が、一部の文人・墨客の間に起ってきた。俳聖松尾芭蕉は、『奥の細道』の旅の途中で月山に登拝し、俳人大淀三千風は、富士山・白山・立山の三山を含めて多くの高山に登り、『日本行脚文集』を著した。南画の大家池大雅は三山を登り、三岳道老と号し、多くの富士の絵を描いている。山水画の巨匠谷文晃は、三山を含めて山岳名画集『日本名山圖會』を上梓し、山好きの人々に愛されてきた。また、本草学者の植村政勝は、全国の山野を跋渉して、薬草を採集し、見聞したことを『諸州採薬記抄』として書き記した。文人・墨客の山旅紀行文とことなり、一尾張藩士が記した『三の山巡』は、文政六年(一八二三)に、三十五日間をかけて三山に登った紀行文である。これは江戸時代の登山の様子を知ることができるだけでなく、道中の町や村の風俗や生活様式などについて貴重な記述が多く、興味ある文献である。
feedback
Top