ジャイナ教では,adattadana「与えられていないものの取得」という表現が偸盗のシノニムとされる.本稿は,adattadanaを文字通りに解して偸盗の完全な同義語と見做し,それを現実の宗教生活に適用する際に生じ得る問題-例えば王による盗賊の財産差押さえは,「盗賊が与えていない(adatta)ものを王が取得する(adana)」以上,王は偸盗を犯すことになる-を指摘し,その種の問題に自覚的であったジャイナ教論師たちのうち,アガスティヤシンハ,
ウマースヴァーティ
,シッダセーナを取り上げ,彼らがどうadattadanaを解釈するかを検討した.その結果,彼らは,(1)adatta-を「マハーヴィーラが説いた教典によって与えられていない(i.e.取得を許可されていない)」と再解釈し,教典で許可されていないものを取得すれば,所有者がそれを贈与したとしてもsteyaとみなされること,(2)steyabuddhi「盗もうという意図」で与えられていないものを取得する時にのみ偸盗が成立すること,(3)「与えられていない」とは「所有者が存在する」という意味であること,(4)pramattayoga「不注意な人の行動」ゆえに与えられていないものを取得することで,はじめてsteyaが成立すること(5)業は誰からも与えられていない(adatta)が,そもそも業には所有者が存在しないから,その取得はsteyaとは見做されないこと,等の論点を通じてadattadanaの意味を再解釈・改変し,当該語をsteyaの同義語と見倣した際に生じることが想定される種々の問題点を回避しようとしたことが明らかとなった.
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