『城の崎にて』を「生と死が等価である」ことをテーマとする小説だと看破する田中実の「第三項理論」は、国語科の教室にパラダイムシフトを迫っている。文学教材は「通常の意味の場から対象を移動させる」芸術として教えるべきである。
『城の崎にて』はその作中に先行作『范の犯罪』を登場させる。識域下で一如たらんとした夫婦の壮絶な愛の終着点が「
カルネアデスの板
」を現出させ、人が作り上げた思考体系の外側、法や制度が覆い隠してきた「生き物としての摂理」をえぐり出した作品である。その作者として「生と死を等価なもの」と認識する主人公が不慮の事故で殺され掛かった者として登場し、作品は総ての生き物の生を等価とする視線に貫かれ、「いもり」を偶然殺してしまうという「殺される者」から「殺す者」へと逆転していく感覚を「生きることと死ぬこと」に差はないとして、「死」の相対化という大転換へと昇華させる。このような文学世界を私たちの世界のリアルに繋ぐために國分功一郎が能動態、受動態の「する」「される」の思考様式の外側、意志が前景化しない「中動態の世界」を論じていることが注目される。『城の崎にて』冒頭は主語を明示せず、どこからか来た事故という出来事が「主語=主体をゆっくりと、しかし着実に動かしている」。「主語を座として自然の勢い」が生き物の「生き死に」を実現する様子が描かれているのであり「主体の関与が必要ない」中動態の世界を描いた作品であると言えよう。
「中動態の世界」の復権から想像される新しい社会は、文学が追究してきた「人間の弱さ」に着目した法制度、社会制度としてあるのかも知れない。「第三項理論」という読みの方法は、文学を文学の世界に自閉させないために創出されたものであり、評論と小説を同時に学ぶ国語科の教室は、文学の言葉を文学の世界の外に通じる普遍言語にするための格好の場所である。
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