世界のどこでも, 看護婦や女性は一般に政治力になり得ないとみられている. 広義に定義すれば「政治」は最も基本的な感覚において「その世界はいかなる価値観に基づいて行動されるかを定める力」と言えよう. 本講演においては,「私的側面が政治である」ことをフェミニストの視点で描きながら, ヒューマン・ケアリングが女性や看護婦の仕事であるがゆえに統治する人々からどのように搾取されてきたかを探ってみよう. 搾取は, 公的側面と私的側面が分離した二面として異った倫理や異なった人間関係に支配されているという錯覚によって助長されてきた.
私的側面における配慮の中心におかれるのは女性, こども, 地球である. そこには, 各々の人々の経験を大切にすること, 地球の完全さを大切にすること, 各々のこどもの健康, 教育および1日24時間の安寧への配慮, 病人や傷害をもつ人や老齢者の1日24時間にわたるニーズに対する配慮, 人間間の論争の和解, 人間の間のニーズの対立の調停のための配慮が存在する. 簡潔に云えば, 政治の統治から取り残された配慮がケアリングの政治である.
ケアリングの政治には二つの側面がある. 他者のためのケアリングの政治, および自分自身のたのケアリングの政治である. 他者のためのケアリングの政治は社会的, 文化的“義務的ケア業務, duty”として歴史的に形づけられてきた. すなわち社会的, 政治的に由来する価値が看護婦や女性の経験を形成する上に大きな影響を与えてきた. それは同時に, ケアリングを文化的に低く価値づける傾向を生んできた. こどもや病人, 死にゆく人々のための最も基本的な身体的ニーズのためのケアリングは, 十分に支払われることなく, 価値を認められず, その間にこの遂行すべき業務(duty)は, これらの仕事が遂行されることを保証するように法律や社会的構造の面で組織的に強化されたのである. 看護婦と看護は, ヒューマン・ケアリングのための新しい倫理や綱領がそれを基礎としてその上に新しい未来を創造することができるように定義される事を追い求めている.
自分自身のためのケアリングの政治は, 世界において行動するために必要とされる成長の保証, 自信, 知識へと踏み出すことである. 知ることおよびわれわれ自身のためのケアにおいて, われわれは最良のセンスにおいて全く政治的である世界にかかわり合う方向へ向かわなければならない. われわれは, われわれがこの世界において完全に行動しようとすることを組織的に抑止したり, 変化のための行動を怠ろうとしたりするものに気付きはじめなければならない. われわれは, われわれの内なる声, 洞察, 熱情に気付き, 価値づけをはじめよう. われわれは政治的になろう
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