インドシナとフランスでの植民地科学の制度化は一八九〇年代後半にほぼ同時に起こった。本論はこれら植民地科学の相互作用をギョーム・キャピュに焦点を当てて考察する。キャピュはフランス領インドシナの科学ネットワーク形成においてキー・パーソンとなった。フランスの「帝国と科学」に関する先行研究では、本国の内部で形成された植民地科学者のネットワーク形成に焦点が当てられてきた。しかし、本論はキャピュに焦点を当てることで植民地の側から植民地科学の制度化を明らかにする。
キャピュは国立自然史博物館とソルボンヌ大学で学んだ科学者だった。彼はまた、一八八〇年代に中央アジアの探検家としてもパリで知られていた。キャピュは一八九七年にインドシナ総督のポール・ドゥメールから招聘され、インドシナで農商務局を設立した。同局は農業部、地質部、気象観測所、森林部、獣疫医務部といった部署や、商業部門、出版室、博物館、植物園、農業試験場、農学校、研究所を有する多様な組織だった。キャピュは研究の成果、とりわけ作物の順化に関する研究成果を植民地行政に組み込み、植民者や現地人に還元しようとした。
また彼は、パリ万国博覧会やハノイ博覧会の準備、パリ・植民地事務所の設置、ニャチャン・パスツール研究所のサポート、ハノイ医学校の運営、インドシナ美術・工芸学校の設立準備などを通じて、ドゥメールが進める事業にも積極的に関わった。さらにキャピュは、ドゥメールと共にフランス植民地協会の植民地農業キャンペーンやナンシー国立林学校の植民地研究部門の創設に関わり、フランス本国の植民地科学の創設において重要な役割を担った。
ギョーム・キャピュはインドシナの植民地統治に自然科学を組み込むと同時に、インドシナとフランスを結ぶ植民地科学ネットワークの形成に寄与した。一九〇二年にドゥメールが帰国して有力な後ろ盾を失った後、一九〇九年に農商務局が解体されるまで、キャピュはインドシナで政治的な圧力から科学研究を守り続けた。また、一九一〇年代から一九二〇年代にかけて、彼は植民地科学アカデミーや植民地科学協会の委員、植民地省顧問、ノジャン国立植民地研究所の教授を歴任し、フランスの植民地科学者ネットワークの形成で重要な役割を担った。ギョーム・キャピュはフランス帝国の世紀末転換期における植民地科学者ネットワーク形成のハブだったのである。
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