_I_.はじめに
自然環境や歴史,文化など,地域住民が主体となって地域資源を活かすことにより,観光客の誘致を図り,観光を中心とした持続的なまちづくりを行う例が数多く見られるようになった。千葉県白子町は,テニスという観光対象によって,地域住民である民宿経営者がとしてまとまり,「テニスの町」を形成した事例である。本報告では,白子町中里地区におけるテニス民宿観光地の発展過程とその特性について,地域住民である民宿経営者の経営変遷から明らかにすることを目的とする。
_II_.
テニスコート
の導入による季節民宿観光地の変化
1960年代初頭に,白子町では5箇所の海水浴場が開場され,中里海水浴場を有する中里地区に4軒の季節民宿が開業した。しかし,昭和戦前期から海水浴地として発展してきた九十九里町に対して,後発地域であった白子町は海水浴以外の観光対象を模索するようになった。
1971年に白子町中里地区の1軒の季節民宿が,海水浴客用の余暇施設として4面の
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を導入し,周辺の季節民宿も続いて
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16面を建設した。この16面は,中里地区がテニス民宿観光地へと発展していく端緒としてシンボル的な存在であり,現在は「メインコート」と呼ばれ,テニス大会の主要コートとされている。1979年には,民宿経営者の働きかけによって集落周辺の農業振興地域の指定が解除され,1986年には400面を越すまでになった。季節民宿の経営者は,
テニスコート
と合わせて宿泊棟を建設し,「テニス民宿」による通年経営を始めた。季節民宿の経営者は,
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と合わせて宿泊棟を建設し,「テニス民宿」による通年経営を始めた。
_III_.民宿経営の多様化とテニス大会の誘致
1980年代のバブル経済期を背景に,中里地区ではテニス民宿の施設規模の拡充と,
テニスコート
の改修が図られた。とくに,1989年に温泉が掘削されたことで,温泉導入に伴い高層の宿泊棟や体育館などが建設された。1970年代の
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の導入期や1980年代のバブル経済期など,それぞれの転換期における設備投資の状況によって,民宿経営は多様化していった。比較的小規模な民宿は,「既存民宿型」と「テニス型」とに分化し,バブル経済期に積極的に設備の拡充をおこなった民宿は,「スポーツ複合型」と「大規模複合型」とに分化した。
中里地区では,山中湖や軽井沢と差別化を図り,「テニスの町」というイメージを定着させるために,テニス大会の誘致を積極的に行ってきた。とくにジュニア世代の獲得を重視し,ソフトテニス大会の誘致に力を入れた。中里地区では,「テニスの町」というイメージを定着させるために,山中湖や軽井沢と差別化を図り,ジュニア世代の獲得を重視してソフトテニス大会の誘致に力を入れた。テニス大会の開催数が増えるに連れて,中里地区ではメインコートを中心に
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が集積するようになり,このテニスエリアに近接する宿泊施設は規模を拡大していった。このような過程を経て,中里地区では,メインコートや周辺のサブコート,宿泊施設などそれぞれの資源が機能的に配置された空間を形成してきた。
_IV_.「テニスの町」の発展過程とその特性
中里地区における観光地化は,民宿経営者を中心とする地域住民が主体となってなされたものであった。観光化の過程で,各々の経営者は個別に意思決定をしつつも,地域が「テニスの町」としてまとまり,観光地となった背景には,地域リーダーの存在が重要であった。
テニスコート
の導入や,テニス大会の誘致,温泉開発など,いずれも大規模複合型民宿を営む地域リーダーが発案し,コミュニティ内の仲間同士で結束して取り組んできた。2008年には48のテニス大会を開催予定であり,1,000人を越えるテニス大会の開催では,地域内の
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や宿泊施設へ宿泊客が割り振られ,地域全体でテニス大会を支えている。テニス大会の開催を通して,民宿それぞれが規模に応じた役割を果たし,地域全体がテニス民宿観光地として機能している。
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