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クエリ検索: "トイレ遺構"
11件中 1-11の結果を表示しています
  • 金原 正明, 金原 正子
    可視化情報学会誌
    1994年 14 巻 53 号 79-84
    発行日: 1994/04/15
    公開日: 2009/07/31
    ジャーナル フリー
  • 大道 公秀, 橘田 規, 椎野 博, 清水 文雄, 西念 幸江, 小田 裕樹, 三舟 隆之
    分析化学
    2023年 72 巻 1.2 号 57-62
    発行日: 2023/01/05
    公開日: 2023/02/05
    ジャーナル フリー

    考古学分野において,土器の内面に白色物質が付着した報告が散見される.これまでに土器内面付着白色物を対象に行った蛍光X線分析,FTIR(Fourier Transform Infrared Spectroscopy)分析及びX線回折によって,白色物は水酸化アルミニウムの結晶と同定した報告がある.ただし,その起源については明らかにはなっていない.今般,平城京跡出土の奈良時代須恵器内面に白色付着物が見られた事例があった.そこで土器の用途について解明することを目的に,土器内面の白色物について蛍光X線分析,FTIR分析,X線回折を行ったところ,水酸化アルミニウムの結晶の一種であるバイヤライトと同定した.土器付着白色物質の同定例としてバイヤライトが同定されることは珍しい.バイヤライトの成因は土器の使用用途に関連していると考えられるが,そこに外部環境が関与した可能性がある.これまでの知見と考え合わせながら,白色物起源の解明を進めている.

  • 伊藤 武士
    日本考古学
    2000年 7 巻 10 号 127-137
    発行日: 2000/10/04
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    秋田県秋田市に所在する秋田城跡は,古代日本最北の城柵官衙遺跡である。
    律令国家により天平五年(733)に出羽柵として創建され,その後秋田城と改称された。8世紀前半から10世紀にかけて律令国家体制下における出羽国の行政及び軍事の拠点として蝦夷や移民の支配と統治を行った。奈良時代には出羽国府が置かれていたとされ,また近年は,日本海を通じた大陸の渤海国や北方地域との外交と交流の拠点としての役割も注目されている。
    秋田城跡では1972年以降秋田市教育委員会による継続調査が実施され,外郭区画施設及び政庁などの主要施設や実務官衙などの所在と変遷が確認され,城内外の利用状況も明らかになりつつある。
    近年の調査では,外交交流,行政,軍事などの面において,秋田城が城柵として果たした役割やその特質に関わる重要な成果があがっている。
    第63次調査では,鵜ノ木地区から上屋と優れた施設を伴う8世紀後半の水洗便所遺構が検出されている。便所遺構の寄生虫卵の分析から,ブタを常食とする大陸からの外来者が使用した可能性が指摘され,奈良時代に出羽に来航した渤海使や,外交拠点として秋田城が果たした役割との関連性が注目されている。
    第72次調査では,画期的内容の行政文書が漆紙文書として多数出土している。それらは,移民や蝦夷などの住民の把握と律令的支配を行うための死亡帳,戸籍,計帳様文書などであり,古代律令国家の城柵設置地域における地方行政制度や住民の構成と生活実態を知るうえで重要な成果となっている。また,第72次調査では,9世紀前半の非鉄製小札甲も出土している。平安時代前期の非鉄製小札甲の出土例や伝世品はなく,日本古代の甲の変遷を考えるうえで重要な成果となっている。
    漆紙文書や小札甲の出土は,秋田城が平安時代に行政と軍事の枢要機関として果たした役割を示唆している。
    秋田城跡の調査においては,今後も行政や軍事といった城柵としての基本的機能や役割を追究すると共に,最北の城柵としての特質についても解明していく必要がある。
  • 藤田 尚, 洪 宗河, 申 東勳
    Anthropological Science (Japanese Series)
    2023年 131 巻 1 号 9-15
    発行日: 2023年
    公開日: 2023/06/28
    [早期公開] 公開日: 2023/04/14
    ジャーナル 認証あり
  • 安保 堅史, 藤田 龍之, 知野 泰明
    土木史研究
    1999年 19 巻 379-385
    発行日: 1999/05/01
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    ここ数年、発掘される遺構とその報告は、公共工事や宅地開発などの建設工事の増加傾向に比例するかたちで増え続けている。また、それら遺構の内容には土木に関係しているものも数多い。本研究では発掘土木遺構に関する近年の発掘記事と関連記事をもとに、どのような種類の遺構が発掘されているのか、また、保存あるいは何らかの形で活用されている遺構にはどのようなものがあるのかを知るために、具体例を示した上で保存・活用されている遺構の傾向を分析し、そして遺構に関する世論の関心や重要度の変遷を追うため講演やシンポジウム、フォーラムなど記事件数の数値的変化を検討した。その結果、時代が新しくなるにつれ、できる限り遺構を残していこうという動きは大きくなってきてはいるものの、実際に保存・活用されているのはごく一部で、その内容も偏っているということが判明した。その内容から土木遺構の今後の活用のあり方や問題点を検討してみた。
  • 平澤 加奈子
    史学雑誌
    2007年 116 巻 5 号 668-670
    発行日: 2007/05/20
    公開日: 2017/12/01
    ジャーナル フリー
  • 史学雑誌
    1999年 108 巻 12 号 2188-2215
    発行日: 1999/12/20
    公開日: 2017/11/30
    ジャーナル フリー
  • 神吉 和夫
    土木史研究
    1993年 13 巻 535-542
    発行日: 1993/06/01
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
  • 北川 陽一郎, 吉川 周作, 高原 光
    第四紀研究
    2009年 48 巻 5 号 351-363
    発行日: 2009/10/01
    公開日: 2012/03/27
    ジャーナル フリー
    大阪湾夢洲沖コアを用いた花粉分析に基づいて,完新世の大阪湾集水域における植生変遷を復元した.このコアからは多数の放射性炭素年代が得られており,11,100~9,800 cal BPではコナラ亜属やクマシデ属から構成される冷温帯性落葉広葉樹林が発達していた.9,800~9,000 cal BPでは,エノキ-ムクノキ林が拡大し,冷温帯性落葉広葉樹林はやや衰退した.9,000~5,400 cal BPでは,エノキ-ムクノキ林と冷温帯性落葉広葉樹林がアカガシ亜属やシイ属から構成される照葉樹林と交代した.5,400~2,900 cal BPでは,照葉樹林が最も発達した.2,900~1,200 cal BPでは,温帯性針葉樹林が増加し,照葉樹林がやや衰退した.1,200~300 cal BPでは,二次林であるアカマツ林が拡大し,自然林である温帯性針葉樹林や照葉樹林が徐々に減少した.また,緩やかな森林の減少が推測された.300 cal BP~現在では,自然林が急速に減少し,アカマツの疎林やはげ山が拡大した.
  • 森 勇一
    第四紀研究
    2020年 59 巻 2 号 43-61
    発行日: 2020/04/01
    公開日: 2020/04/25
    ジャーナル フリー

    本研究は,遺跡から発見された昆虫化石を用いて先史~歴史時代の人々がどのような環境下でどのように生活していたか,また遺跡から見つかった昆虫から古代の人々が何を食べ,どんな仕事を行っていたか考察したものである.

    縄文時代中期の埼玉県デーノタメ遺跡では,ヒトが植栽した果樹や畑作物などを加害する食植性昆虫を多産した.当時の人々が自然植生を作り変え,集落の周りに有用植物を植栽していたと考えられる.中世の愛知県清洲城下町遺跡からコクゾウムシ・ノコギリヒラタムシなど貯穀性昆虫を多産する遺構が確認され,その周辺に穀物貯蔵施設が存在したことが示された.岐阜県宮ノ前遺跡における晩氷期の昆虫群集を調べ,植物化石で推定された古環境と昆虫化石で得られた古環境にタイムラグがあることを明らかにした.

    平安時代の山形県馳上遺跡からウルシに絡めとられた昆虫が見つかり,これが厳冬期にのみ成虫が現れるニッポンガガンボダマシと同定された.この結果,当時の人々が冬季に漆塗り作業を行っていたことが示された.縄文時代中・後期の青森県最花遺跡および同県富ノ沢(2)遺跡の土器片から2点の幼虫圧痕が検出され,1点がキマワリ,もう1点がカミキリムシの仲間と同定された.両者とも土器製作現場に生息することがないため,ヒトが食材など何らかの目的をもって採集したものであるとした.青森県三内丸山遺跡(縄文時代前期)のニワトコ種子集積層から見つかったサナギがショウジョウバエと同定されたことから,この種子集積層は酒造りに利用されたものと推定した.天明3(1783)年の浅間泥流に襲われた群馬県町遺跡より穀物にまぎれたゴミムシダマシが確認され,ゴミムシダマシが貯穀害虫であったことが示された.

  • 日本考古学
    1998年 5 巻 6 号 3-88
    発行日: 1998/12/10
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
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