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クエリ検索: "ナーガ"
1,864件中 1-20の結果を表示しています
  • 渡辺 俊和
    印度學佛教學研究
    2013年 61 巻 3 号 1229-1235
    発行日: 2013/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    本稿では『プラマーナサムッチャヤ』第3章でディグ
    ナーガ
    が行う,サーンキヤ学派のavita説批判を検討し,(1)ディグ
    ナーガ
    の理解するavitaの構造は,サーンキヤ学派の提示する本来のそれを大幅に改変したものであり,prasangaを証因の三条件説に組み込むことに成功している(2)ディグ
    ナーガ
    によるavita解釈が,ダルマキールティが用いるprasangaviparyaya,そしてバーヴィヴェーカがブッダパーリタを批判する際に用いるviparyayaと同じ構造である という二点を明らかにした.(1)ディグ
    ナーガ
    の理解するavitaは,vitaと同じ主題(A)について,vitaでの遍充関係(B→C)の対偶(¬C→¬B)を用いて望ましくない帰結を導くものである.vita:A(B→C) avita:A(¬C→¬B)) ∧¬¬B∴ ¬¬C 従って,avitaはvitaに変換され,同じ内容を表すものと理解される.このことは,prasangaも証因の三条件説の枠内に収まるということを意味し,さらには正規論証(sadhana)へ変換されうる可能性を示唆するものである.(2)ダルマキールティおよび彼の注釈者達によるprasangaとprasangaviparyayaの関係は,前者がディグ
    ナーガ
    のvitaに,後者がavitaに対応する.また,バーヴィヴェーカの提示するviparyayaへの変換も,バーヴィヴェーカは否定(¬)をparyudasaで理解しているのに対してディグ
    ナーガ
    のそれはprasajyapratisedhaであるという点は異なるが,ディグ
    ナーガ
    がavitaをvitaへ変換した手順と構造的に同じである.
  • 山野 智恵
    印度學佛教學研究
    2008年 56 巻 3 号 1157-1163
    発行日: 2008/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    ナーガ
    ールジュナの伝記資料は,これまでの研究において,彼の歴史的な事蹟を再構成する資料として,あるいは,その思想を事蹟から裏付ける資料として読まれてきた.そこで問題とされてきたのは,
    ナーガ
    ールジュナの生存年代を決定する,サータヴァーハナ王やカニシカ王との同時代性であり,あるいは『勧誡王頌』『宝行王正論』の著者である事を裏付ける王の師としての事蹟である.これらの記述をもとに,サータヴァーハナ王が誰であるのかという学説が様々な学者によって提示されてきた.しかし,従来の研究は,文献自体の資料的価値を疑問視せずに,
    ナーガ
    ールジュナとサータヴァーハナ王の関係を無条件に歴史的事実の反映と見た事に,根本的な問題があったといえる.ここでは,伝記や聖者伝から歴史的事実を再構成する伝記研究の限界を認識した上で,従来の研究とは異なった,
    ナーガ
    ールジュナ伝の読みを提示したい.七世紀のバーナの『ハルシャチャリタ』は,龍宮を訪問した
    ナーガ
    ールジュナが,ヴァースキ龍王から真珠の瓔珞を譲り受け,この宝物を友人のサータヴァーハナ王に贈与したとする物語を説いている。サータヴァーハナは,紀元前一世紀頃から三世紀にかけてデカン地方を統治した王家の名称であるが,インドの説話文学の中には,サータヴァーハナ(あるいはその異称であるハーラ)という名を持つ王がしばしば登場する.
    ナーガ
    というイメージの連鎖の中で,
    ナーガ
    ールジュナ伝は様々な説話的要素や人物を融合しながら展開していくが,
    ナーガ
    ールジュナとサータヴァーハナ王をめぐる伝説も,デカン地方における説話世界の中に置き直すことで,この展開の一過程として読むことが可能である.
  • 渡辺 俊和
    印度學佛教學研究
    2010年 58 巻 3 号 1235-1240
    発行日: 2010/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    本論文では,ダルマキールティのjati(誤った論難)説が,ディグ
    ナーガ
    説を継承しながらウッディヨータカラによる批判に対抗するものとして形成されたものであることを明らかにした.ダルマキールティはPramanaviniscaya 3.85で,jatiに関する彼の見解をまとめている.彼によれば,jatiの数はいくらでも考えだすことが可能であるので,個別に論じられる必要はない.これは,部分的にはディグ
    ナーガ
    の説を継承しながらも,ウッディヨータカラによる,仏教徒の主張する14種へのjatiの分類に対する批判に応じるものである.このような基本的立場に反し,ダルマキールティはPVin 3.72(=PV 2.14)でkaryasamaというjatiを定義している.彼の定義はディグ
    ナーガ
    の説に従うものであるが,それを改めて定義しなければならなかったのは,ウッディヨータカラによるディグ
    ナーガ
    への批判に対抗するためであった.ディグ
    ナーガ
    は,samsayasamaによって対論者が誤った論難をなす際には,主張命題あるいは証因の意味が別様に仮構されることによって疑惑が生じると説明している.しかしウッディヨータカラは,これと類似した「証因の意味が別様に付託されることによって誤った論難が起こる」という特徴を,karyasamaの特徴であると主張し,ディグ
    ナーガ
    説は二つのjatiを混同しているとして批判する.これにより,彼以前にはkaryasamaについては大きな差が見いだされなかった仏教徒とニヤーヤ学派との間に明確な差が生じた.ダルマキールティはこれに対抗する必要から,ディグ
    ナーガ
    説でのkaryasamaの特徴である,「paksadharminとdrstantadharminとの差に基づいて証因に意味の違いを考える」という点を再度強調しているのである.
  • 松岡 寛子
    印度學佛教學研究
    2012年 60 巻 3 号 1242-1247
    発行日: 2012/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    『タットヴァ・サングラハ』「外界対象の検討」章では,外界対象の存在が不合理であることと,認識が所取・能取という二相を欠いていることを根拠として唯識説が確立されることが説示される.シャーンタラクシタはv.118(TS_B 2082)において次のように述べる.能力が直前の認識にあるとき,所取分に関して〔認識〕対象が確立される(ab).〔しかしながら,所取分に関する認識対象の確立を〕我々は真実のものとしては認めない.したがって〔我々は〕それ(認識対象の確立)を支持しない(cd).認識の一部分に認識対象を設定するというab句の見解が『観所縁論』におけるディグ
    ナーガ
    の主張に一致することは『パンジカー』に『観所縁論』を引用するカマラシーラによって指示される.両師弟はこのディグ
    ナーガ
    説をいかなるものとして言及しているのか.西沢史仁氏は,師弟がディグ
    ナーガ
    の唯識説をそれとは異系統の唯識説を奉じる立場から批判しているとみなしている(「カマラシーラのディグ
    ナーガ
    批判」『インド哲学仏教学研究』3(1995):21).しかし,師弟は認識対象の設定を全面的には否定しておらず,ましてや唯識論師ディグ
    ナーガ
    を批判していない.『パンジカー』,及び『観所縁論釈』等によれば,ディグ
    ナーガ
    が『観所縁論』において認識の所取分に認識対象を設定したのは世俗的真理の観点からであって究極的真理の観点からではない.そしてこの所取分に認識対象を設定すること,認識に所取・能取という二相を設けることこそが唯識説における「垢」である.この「垢」が真実の観点から除去されることにより,最終的に唯識説は「無垢」(119b': vimala)となる.シャーンタラクシタの見解において,唯識説はこのように認識の無二性に帰着するのである.
  • 雲井 昭善
    密教文化
    1986年 1986 巻 160 号 13-34
    発行日: 1986/11/21
    公開日: 2010/03/12
    ジャーナル フリー
  • 片岡 啓
    印度學佛教學研究
    2017年 66 巻 1 号 463-457
    発行日: 2017/12/20
    公開日: 2019/01/11
    ジャーナル フリー

    A real entity has many aspects. It can be apprehended with various concepts such as pine, tree, earthen, substance, existent, and object. People can extract a certain aspect of an entity by means of words. According to Dignāga, this extraction is possible only through excluding the other meanings. His claim implies that this extraction is impossible in the framework of realism, in which universals are posited in accordance with their corresponding concepts. According to Dignāga, a co-referential expression sad dravyam cannot be explained in the realist view, because there is a difference in level between the substratum and the property. In other words, the expression would become figurative (aupacārika, bhākta). If one forcedly pulled down the properties to the ground level, undesirable consequences such as contradiction (virodha) between properties or confused perception (mecakadarśana) would follow. It is impossible to extract a single property when many properties cohabit in an entity. The theory of exclusion (apoha), however, does not run into this problem, because exclusion is not a substance (adravya). Many exclusions, such as the exclusion of non-pots and so on, can cohabit in an entity. A certain exclusion can be extracted in accordance with the difference of the excluded objects. Therefore, Dignāga claims that a certain aspect of a real entity is apprehended in the world by excluding the other meanings.

  • 杉本 卓洲
    印度學佛教學研究
    1976年 24 巻 2 号 562-567
    発行日: 1976/03/31
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
  • 木村 整民
    印度學佛教學研究
    2019年 67 巻 2 号 913-910
    発行日: 2019/03/20
    公開日: 2019/09/20
    ジャーナル フリー

    The difference between the explanations of the sixteen categories of emptiness (sūnyatā) in the Prajñāpāramitāpiṇḍārthasaṃgraha (PPS) and the Mādhyāntavibhāga (MAV) indicates a contradiction with the Prajñāpāramitāsaṃgrahakārikāvivaraṇa (PPSV), a commentary on the PPS. Due to the fact that the PPSV interprets the PPS in accordance with the MAV, previous studies explain that the contents of the sixteen kinds of emptiness in the PPS match the MAV. In this paper, however, by comparing the PPS and the MAV I assert that the order of illustrations is different, and that the PPS lacks a reference to a positive side of emptiness. Moreover, the significance of “emptiness of non-existence” (abhāva-śūnyatā) and the “emptiness of existence of non-existence” (abhāvasvabhāva-ś.) in the sixteen categories of emptiness is not emphasized in PPS. Furthermore, a careful comparison of the PPSV with the PPS and the MAV reveals an inconsistency of the PPSV; the explanation of the “emptiness of marks” (lakṣaṇa-ś.) in the PPSV, which is based on its interpretation of the MAV, can be regarded as an example of the inconsistency.

  • 秦野 貴生
    印度學佛教學研究
    2021年 69 巻 3 号 1099-1104
    発行日: 2021/03/25
    公開日: 2021/09/06
    ジャーナル フリー

    アポーハ論(anyāpoha)は仏教論理学を確立したディグ

    ナーガ
    により提唱された理論である.しかし,ディグ
    ナーガ
    の思想を継承しているダルマキールティが,主著『プラマーナ・ヴァールッティカ』の第1章,およびそれに対する自注でのアポーハ論箇所で,apohaという語を用いる頻度は少なく,bhedaやvyāvṛttiといった語を代わりに用いていると考えられる.諸先行研究では,当該箇所でダルマキールティがapohaという語を用いるのは,主にディグ
    ナーガ
    の主張に言及する場合に限られるということや,その際のapohaに「内的形象」(ākāra, pratibhāsa)との関連性がないことが示されているが,『プラマーナ・ヴァールッティカ』の他の章や,注釈者シャーキャブッディによる復注(自注への注)ではapohaと内的形象との関連が見られることもまた示されている.

    本稿では,ダルマキールティの著作のうちアポーハ論箇所以外でのapohaが,ダルマキールティの見解に直接関連するかどうかについて整理し,そして,アポーハ論箇所でダルマキールティがapohaの代わりに用いている語の用例を検討することにより,ダルマキールティ自身のアポーハ論と「内的形象」との関連性について明らかにした.

    アポーハ論箇所以外では,apohaと内的形象との関わりはディグ

    ナーガ
    やシャーキャブッディの説を通じて見られ,ダルマキールティは「ディグ
    ナーガ
    のアポーハは内的形象と密接である」と捉え,シャーキャブッディは「ダルマキールティのアポーハが内的形象である」と捉えている.アポーハ論箇所において,apohaの言い換えとして用いられているvyāvṛttiの用例では,vyāvṛttiは分別知上に現れている対象を通じて普遍や同一基体性などの言語表現が成り立つ根拠であり,vyāvṛtti自体が内的形象とは解釈されなかった.

    したがって,ダルマキールティ自身の主張において「apohaが内的形象である」という内容は確認されず,両概念は互いに区別して使用されていた.

  • ディグナーガの aptavadavisamvada 解釈をめぐって
    大野田 晴美
    印度學佛教學研究
    2004年 52 巻 2 号 785-783
    発行日: 2004/03/20
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
  • ――ディグナーガ,ウッディヨータカラ,ダルマキールティ――
    渡辺 俊和
    印度學佛教學研究
    2016年 64 巻 3 号 1263-1269
    発行日: 2016/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    「Xは存在しない」という命題は,非存在であるものを否定することになるが,そのような行為は成立するのだろうか.本稿ではこの問題に対する,ディグ
    ナーガ
    ,ウッディヨータカラ,そしてダルマキールティの三者の見解を検討し,それらの対応関係について明らかにした.ディグ
    ナーガ
    はNyayamukhaで「プラダーナは存在しない.認識されないから」という論証においても証因に主題所属性を確保するために,主張命題の主題である「プラダーナ」を概念的構想物(kalpita)として扱う.それにより,主題に概念的な存在性が確保され,証因がasrayasiddhaの過失に陥ることを回避している.一方ウッディヨータカラはNyayavarttika on Nydyasutra 3.1.1で,「アートマンは存在しない.認識されないから」という論証を対象として,ディグ
    ナーガ
    説を批判している.まず彼は,概念的構想(kalpana)を「別様であること」(atathabhava)と定義することで,アートマンが概念的構想物である場合には証因がその属性となり得ないことを説明する.また「アートマン」という語が実在を表示するので「存在しない」という述語との間に矛盾が生じることを指摘する.これに対してダルマキールティはPramanavarttikasvavrttiおよびPramanaviniscaya 3で,概念的構想物を知に現れる形象と解釈することによってディグ
    ナーガ
    説を補強し,ウッディヨータカラへの再反論とした.語が知の形象を対象とする限り,「プラダーナ」は外界対象としては「認識されない」ので,証因は主題の属性となると同時に,主張命題にも矛盾は生じないことになる.
  • 木村 整民
    印度學佛教學研究
    2018年 66 巻 3 号 1091-1095
    発行日: 2018/03/25
    公開日: 2019/01/25
    ジャーナル フリー

    ディグ

    ナーガ
    (Dignāga)著『仏母般若波羅蜜多圓集要義論』(Prajñāpāramitā­piṇḍārthasaṃgraha)は,『八千頌般若波羅蜜多』の綱要書である.その中心テーマは十六空と十種の分別散乱である.本稿では『圓集要義』と『八千頌』における十六空について検討する.『圓集要義』の注釈書であるトリラトナダーサ(Triratnadāsa)著『仏母波羅蜜多圓集要義釈論』には,これらの空性の名称が『中辺分別論』と一致することが述べられている.しかし,すべての空性の名称や内容が『中辺論』に説かれるものと一致するわけではない.『八千頌』との関係については,『圓集要義』の第八偈において『圓集要義』が『八千頌』に準拠していることを述べている.

    従って,『圓集要義』と『八千頌』を比較検討し,十六空について両書の関係を明らかにすることが本稿の目的である.『圓集要義』が『八千頌』から引用していると想定出来る箇所は六つの空性に関係する.それらを比較検討し,それぞれの対応箇所と両書の説示順序が一致するかを指摘する.さらに,要約されていないものについては,『圓集要義』における空性の解説内容から『八千頌』と比較検討し,該当する空性について指摘する.

  • ――ディグナーガとダルマキールティの相違点――
    三代 舞
    印度學佛教學研究
    2011年 59 巻 3 号 1251-1255
    発行日: 2011/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    本稿は,仏教論理学派の論師であるディグ
    ナーガ
    (Dignaga)とダルマキールティ(Dharmakirti)の両者が唯識的立場から主張する,認識根拠(pramana)としての能取形相(grahakakara)に関する考察である.両者の間には,能取形相の理解に相違があり,その違いは,認識結果(pramanaphala)である自己認識(svasamvedana)をどのようなものとして捉えるかということと関わっている.まず,ディグ
    ナーガ
    は,識が自己顕現(svabhasa)と対象顕現(visayabhasa)という二つの顕現をもって生じること(=識の二相性)に基づいて自己認識を説明し,その一方である自己顕現すなわち能取形相を認識根拠と見なす.一方ダルマキールティは,そのような識の二相性を前提とするのではなく,「自ら顕照する」という新しい形で自己認識を規定している.日常的な知覚に即した形で説明する場合には,ディグ
    ナーガ
    と類似する対象形相と対比的に扱われるような能取形相の理解が示されるが,「自ら顕照する」という認識の本性に即した形で説明する場合には,能取形相は識別を本性とすること(paricchedatmata),さらに,自己認識の能力をもつこと(svatmasamvidi yogya[ta]]と言い換えられ,対象形相との対比的関係が解消される.
  • 王 征
    印度學佛教學研究
    2018年 67 巻 1 号 317-313
    発行日: 2018/12/20
    公開日: 2019/09/07
    ジャーナル フリー

    This paper focuses on Zhizang of Kaishan Temple, who was known as one of three great Buddhist monks in the Liang Dynasty. I not only pay attention to Zhizang’s typical identity as a learned monk, especially his later being called a Master of the Chengshi lun, but also emphasize his insistence on the political independence of the saṅgha. Through comparing the surviving fragments of Zhizang’s Chengshilun Dayiji, which were collected by Professor Funayama Tōru, with Zhizang’s other texts, quoted and critiqued by Jizang, I investigate how the Chengshi lun affected Zhizang’s thought, and whether Zhizang could be called a Master of the Chengshi lun.

  • Yong Tsun Nyen
    印度學佛教學研究
    2020年 68 巻 3 号 1212-1215
    発行日: 2020/03/25
    公開日: 2020/09/10
    ジャーナル フリー

    ディグ

    ナーガ
    (Dignāga,陳那,ca. 480–540)著Ālambanaparīkṣāは,漢訳と蔵訳のみが現存する.漢訳には,パラマールタ(Paramārtha,真諦,499–569)訳『無相思塵論』と玄奘(600/602, 664)訳『観所縁縁論』があり,この注釈書であるダルマパーラ(Dharmapāla,護法,6c)釈には義淨(635–713)訳『観所縁論釈』(ĀP_Y)がある.蔵訳には,本頌(dMigs pa brtag pa, ĀP)とディグ
    ナーガ
    の自注(dMigs pa brtag pa’i ’grel pa, ĀPV),およびヴィニータデーヴァ(Vinītadeva,調伏天,ca. 690–750)釈(dMigs pa brtag pa’i ’grel bśad, ĀPṬ)がある.

    山口益『世親唯識の原典解明』(1953年,法蔵館)の第三章「観所縁論の原典解釈」では,第三偈に述べられている「極微の形相は認識の対象ではない.堅性等のように」(rdul phran rnam pa rnam rig gi // don min sra ñid la sogs bźin)は,ディグ

    ナーガ
    によるものか,対論者によるものかが論じられている.山口氏によれば,パラマールタはこれをディグ
    ナーガ
    の説とし,玄奘もこの説に従っている.しかし,ダルマパーラはこれを対論者の説とし,ヴィニータデーヴァと共通する.本発表はダルマパーラ釈の義淨訳(ĀP_Y)を精査し,第三偈に対する山口氏の指摘を再考するものである.

    この義淨訳は解読が困難であり,意味が曖昧なところ多い.ヴィニータデーヴァ釈(ĀPṬ)をダルマパーラ釈の義淨訳(ĀP_Y)と比較すると,ヴィニータデーヴァにおいて,ダルマパーラのアイデアを採用する場合があることが明らかになった.このように,ヴィニータデーヴァがダルマパーラ釈について言及する個所が多く見られるため,ヴィニータデーヴァ釈と義淨訳を厳密に比較することによって,ヴィニータデーヴァ釈を通して義淨訳が用いる難解な語句について明確にすることができる.

  • 上田 昇
    印度學佛教學研究
    2012年 60 巻 2 号 1006-999
    発行日: 2012/03/20
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
  • 上田 昇
    印度學佛教學研究
    2009年 58 巻 1 号 467-460
    発行日: 2009/12/20
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
  • 前 谷彰(恵紹)
    印度學佛教學研究
    1995年 44 巻 1 号 407-403
    発行日: 1995/12/20
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
  • 須藤 龍真
    印度學佛教學研究
    2020年 68 巻 3 号 1147-1150
    発行日: 2020/03/25
    公開日: 2020/09/10
    ジャーナル フリー

    本稿は中世ニヤーヤ学派の学匠バッタジャヤンタ(ca. 9–10c)による『ニヤーヤマンジャリー』第12章前半部に展開される「詭弁的論駁」(jāti)論を考察するものである.当該箇所において,彼は詭弁的論駁の定義・対象・論証例・下位区分に関して詳細に論じている.彼の詭弁的論駁論に特徴的な点として以下のものが挙げられる.ジャヤンタは,1)従来の詭弁的論駁定義を巡る問題を整理し,綱要所『ニヤーヤカリカー』において新たな定義的説明を与えている.2)時代的に先行するウッディヨータカラ著『ニヤーヤヴァールッティカ』や仏教論理学文献にも確認される詭弁的論駁の適用対象の正誤に関する議論の中で,正しい論証のみを適用対象とする解釈を排し,誤った論証が適用対象となりうることを論書における詭弁的論駁の教示の妥当性の文脈で論じている.3)ヴァーツヤーヤナが詭弁的論駁の適用対象として用いた論証例をウッディヨータカラが等閑視している一方で,先述の議論の文脈で正当化している.4)ニヤーヤ学派の詭弁的論駁の24区分に対する仏教徒からの批判に起因すると思われる分類上の内容重複を巡る問題について,ウッディヨータカラと論点を共有しつつも,異なる視点から下位区分の区別を論じている.以上の点について,『ニヤーヤマンジャリー』とニヤーヤ学派の諸注釈との比較考察を通じて明らかにした.

  • 岡崎 康浩
    印度學佛教學研究
    2015年 63 巻 3 号 1209-1215
    発行日: 2015/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    ウッドヨータカラのアポーハ批判は今まで幾人もの学者によって研究されて来たが,ここでは,『ニヤーヤヴァールティカ』のThakurテキスト,pindの『集量論』第5章の研究を前提に再考してみる.その結果ウッドヨータカラのアポーハ批判は,pindの述べるように『集量論』だけでなく,彼の他の失われた作品からの引用を行っており,しかも,ウッドヨータカラは彼の論点に合わせてかなり自由な引用を行っていることが明らかになった.ただ,ウッドヨータカラの論点は,あくまで普遍や個体を語の指示対象と認めないというディグ
    ナーガ
    の実念論者に対する批判への再批判が主となっており,アポーハという概念そのものに対しては,それがどの程度まで実念論学派の普遍と類似性があるか,普遍として扱うにはどういった問題があるかという論点に止まっており,ディグ
    ナーガ
    の説明にしたがって丁寧に論破するという姿勢にはなっていない.これも,言葉の指示対象の多様性を認めるニヤーヤの立場をディグ
    ナーガ
    の批判から擁護するというウッドヨータカラの主目的から考えれば当然であるようにも思われる.
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