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クエリ検索: "パタンジャリ"
66件中 1-20の結果を表示しています
  • 川村 悠人
    印度學佛教學研究
    2014年 62 巻 3 号 1081-1086
    発行日: 2014/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    バッティが著した『バッティカーヴィア』(Bhk)は,ラーマ物語を描写すると同時にパーニニの文法規則を例証し,それによってパーニニ文法学を教示することを企図した作品である.川村[2013]で示したように,バッティが各文法規則に対して展開される
    パタンジャリ
    の議論を熟知していたことは疑いようがないが,彼は各規則を例証する際に必ずしも
    パタンジャリ
    の解釈に従うわけではない.バッティはA2.3.17 manyakarmany anadare vibhasapranisuを例証するために,BhK 8.99においてtrnaya matva tah(「彼女達を藁だと考えて」)という表現を使用しており,このことは,彼が
    パタンジャリ
    のA 2.3.17解釈に従っていないことを示している.
    パタンジャリ
    によれば,A2.3.17中のanadaraという語は「単なる侮蔑」ではなく「激しい侮蔑」を意味するものとして解釈されるべきである.そして激しい侮蔑は,肯定文ではなく否定文,例えばna tva trnaya manye(「私はお前を藁だとも思わない」)のような文のみから理解される.「激しい侮蔑」を理解させる否定文のみがA 2.3.17の適用領域である.A 2.3.17中のanadaraという語は「単なる侮蔑」と「激しい侮蔑」のどちらも意味し得るから,その限りにおいてはバッティの表現も確かに成立し得る.しかし,
    パタンジャリ
    の解釈に従っていないバッティの表現をバッティ以後のパーニニ文法家達がA 2.3.17の例として受け入れることはない.何故バッティはそのような表現を使用したのであろうか.この問題に対する手がかりを,我々は彼と同時代かかなり近い時代に活躍したと考えられるマーガとダンディンの作品中に見出すことができる.興味深いことに彼らもバッティと同種の表現を使用しているのである.
    パタンジャリ
    が当時のモデルスピーカー達の実際の言語運用を観察して否定文のみをA 2.3.17の適用例として認めたのと同様,バッティも彼の時代の詩人達の言語慣習を考慮に入れて肯定文をA 2.3.17の適用例として提示したと考えられる.
  • 斉藤 茜
    印度學佛教學研究
    2022年 70 巻 3 号 1071-1076
    発行日: 2022/03/25
    公開日: 2022/09/09
    ジャーナル フリー

     マンダナミシュラ(7-8世紀)の『バーヴァナーの分析』(Bhāvanāviveka)の冒頭は文法家によるsāmānādhikaraṇya批判によって幕を開ける.元は

    パタンジャリ
    が動詞語根が行為を表示することの証左として用いた議論で,クマーリラはこれをバーヴァナー論証に読み替えて,行為を表示するのは語根ではなく寧ろ人称語尾であると主張して
    パタンジャリ
    に反旗を翻した.マンダナは文法家の仮面を被って,クマーリラのsāmānādhikaraṇya議論の不備を指摘する.但しその目的はバーヴァナーの存在の否定ではなく,より隙のない理論によってクマーリラのバーヴァナー理論を補強し改善するという意味合いが強い.本稿では,クマーリラのsāmānādhikaraṇya議論の何が問題であったのかを先ず見極めた上で,マンダナが提示した解決策を検討する.具体的には
    パタンジャリ
    が既に指摘していた〈普遍と特殊の関係〉がより厳密に考察されていることを示すのを本稿の目的とする.

  • 矢崎 長潤
    印度學佛教學研究
    2022年 71 巻 1 号 459-455
    発行日: 2022/12/20
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

    The relationship between Pāṇinian grammar and Cāndra grammar, and especially the influence of the latter on the former, has long been disputed. One particular issue meriting examination is the relationship between Candragomin (ca. fifth century) and Bhartṛhari (ca. fifth-sixth century). Since Bhartṛhari calls Candragomin a master (Candrācārya), it is assumed that Candragomin exerted some influence on Bhartṛhari. This study examines their understanding of apādāna, “starting point,” one of the six kārakas, on the basis of new materials currently being prepared for publication, namely, the Cāndrapañjikā and the Śabdārthacintā, both composed by Ratnamati/Ratnaśrījñāna (tenth century).

    For apādāna Candragomin prescribes only one rule, C 2.1.81, which covers all of Pāṇini’s apādāna rules, A 1.4.25 and others. In Cāndra grammar, Pāṇini’s various rules are regarded as elaborations (prapañca) of one general rule (sāmānya), A 1.4.24. Such detailed statements of the general rule may be useful for beginners from a pedagogical point of view, but are not essential to Candragomin’s grammatical system, which aims at concision. Candragomin’s innovation appears to be indebted to a view presented in Patañjali’s Mahābhāṣyaca. second century BC). Bhartṛhari also presents a parallel interpretation that seems to have received little attention in the later Pāṇinian tradition.

  • 矢崎 長潤
    印度學佛教學研究
    2020年 69 巻 1 号 480-477
    発行日: 2020/12/25
    公開日: 2021/09/06
    ジャーナル フリー

    In this paper I point out that some grammatical explanations concerning Patañjali’s proposal for Pāṇini’s rule A 3.4.32 can also be found in some earlier non-Pāṇinian treatises, especially in the Cāndravṛtti on Cāndrasūtra by Candragomin (fifth century) as well as in the extensive Cāndravyākaraṇapañjikā by Ratnamati (ca. 900–980); in response to these, Kaiyaṭa (early eleventh century) seems to criticize the views of Cāndra grammarians. Presenting a chronological overview of the arguments proposed by Patañjali, the Cāndra grammarians, and Kaiyaṭa, I conclude that the arguments we find in the Cāndra tradition can help us understand arguments of the Mahābhāṣya more precisely. Furthermore, Kaiyaṭa’s criticism against the Cāndra system suggests that the Cāndra grammar had become well-known among Pāṇinīyas at that time, and had an influence on the Pāṇinian tradition.

  • ――ヴェーダ語用法に対するバーマハの考え――
    川村 悠人
    印度學佛教學研究
    2017年 65 巻 3 号 1059-1065
    発行日: 2017/03/25
    公開日: 2018/03/24
    ジャーナル フリー

    7世紀頃,カシミールで活躍したと目される詩学者バーマハは,Kāvyālaṅkāra第6章冒頭部で詩文(kāvya)制作におけるパーニニ文法学の知識の重要性を説いた後,同章第 23 詩節以降,詩人がなすべき言語使用となすべきでないそれについて多角的な議論を展開している.Kāvyālaṅkāra 6.27cd句では,詩文におけるヴェーダ語使用が禁止される.

    KA 6.27cd: chandovad iti cotsargān na cāpi cchāndasaṁ vadet |

    さらに,chandovat という一般原則に依拠してヴェーダ語を述べることも許されない.

    このchandovatの原則は,文法家

    パタンジャリ
    が論及する次の二原則と関わる.

    1. chandovat sūtrāṇi bhavanti「諸スートラはヴェーダ語に準ずる」

    2. chandovat kavayaḥ kuruvanti「詩人達はヴェーダ語のような[言葉を]発する」

    バーマハの時代と地域における詩文と文法の連関を探る上で貴重な資料となるKāvyālaṅkāra第6章については,V. M. Kulkarni による有益かつ包括的な概説がある.しかし残念ながら,当該のchandovatの原則は詳論されておらず,バーマハがどのような思想的背景のもと上述の言をなすにいたったのかは明らかにされないまま現在に至る.この問題の考察が本稿の目的である.

    上記二原則が登場するBhāṣyaの分析から,バーマハの主張の背後にあるものを以下のように描くことができる.まずもって,パーニニのヴェーダ語規則によってのみ説明され得る語形を美文作品中で使用することは許容され得ない.それらの規則は美文作品の領域では適用不可だからである.この種の語形は,パーニニ文典中のどの規則もそれを説明できないという意味において,正しくないものと見られるべきである.原則1はこの種の語形を正当化するものではない.何故なら,この原則はパーニニのスートラ中での言葉遣いに対してのみ有効だからである.この原則が効力を発揮する場を美文学領域にまで拡張することは許されない.このことは,Aṣṭādhyāyī 1.1.1: vr̥ddhir ād aicにおける語形aicに対する

    パタンジャリ
    の議論の文脈から明白である.他方,詩文作家の習性に触れる原則2もまた,言葉の正しさを保証するものとはなり得ない.
    パタンジャリ
    が同原則を望ましくないもの(na hy eṣeṣṭiḥ)とし,ヴェーダ語の特徴を有する詩文作家の表現を文章の欠陥(doṣa)と見るからである.以上より,バーマハは
    パタンジャリ
    の論説に忠実に従っていると言えよう.

  • ――バッティによるAstadhayi 1.3.56 upad yamah svakaraneの解釈――
    川村 悠人
    印度學佛教學研究
    2016年 64 巻 3 号 1074-1080
    発行日: 2016/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    Astddhyayi(以下A)1.3.56 upad yamah svakaraneは,upaに先行される動詞語基yamがsvakaranaを表示するとき,同動詞語基の後にatmanepada接辞が起こることを規定する.文法家
    パタンジャリ
    によれば,svakaranaとは「自分のものでないものを自分のものにすること」(asvam yada svam karoti tada bhavitavyam)である.サンスクリット教育を企図した文法実例書Bhattikavya(以下BhK)のatmanepada部門において,バッティは「女達はお酒を受け取らなかった」(upayamsata na, BhK 8.33,[1])という表現によりA 1.3.56を例証する.後代のパーニニ文法家達が明言するように,[1]は文法学の最高権威
    パタンジャリ
    の規則解釈に沿うものである.一方,Kasikavrttiによれば,A 1.3.56のsvakaranaが意図するのは,
    パタンジャリ
    解釈が示すsvakarana一般(svakaranamatra, S1)ではなく,結婚に限定されたsvakarana (panigrahanavisista-svakarana, S2)である.同解釈に従えば,注釈者マッリナータが指摘するように,[1]は誤った言語運用となる.「酒」と結婚することはできないからである.ここで重要なのは,バッティは作中でupa-yamのatmanepada形をS2の意味でも用いていることである.すなわち「ラクシュマナよ,結婚して」(upayamsthah, BhK 4.20,[2])と「ラーマよ,結婚して」(upayamsta, BhK 4.28,[3])である.バッティが[2]-[3]を通じてA 1.3.56のsvakaranaはS2としても解釈され得ることを示唆していることは明らかである.A 1.3.56を例証するには[1]だけで十分であるはずなのに,バッティが[1]に加えて[2]-[3]を使用した理由は何か.この問題に対する鍵は,詩人達の実例である.カーリダーサからマーガに至るまでに著された美文作品において,upa-yamのatmanepada形がS2の意味で使用される例は[2]-[3]を含め8つ確認されるのに対し,それがS1の意味で使用される例はBhK以外にない.このことから,バッティの時代,upa-yamのatmanepada形はS2の意味で使用されることが詩人達の間で確立されていた一方,それのS1の意味での使用は極めて稀であったことが分かる.非周知の意味での語の使用は詩的欠陥(dosa)と見なされかねない.それでもバッティは,
    パタンジャリ
    解釈の権威に基づいて,[1]をA 1.3.56の例として挙げた.その一方でバッティは,彼の時代に確立されていた詩人達の言語慣習にのっとった形でA 1.3.56を例証するために,[1]に加えて[2]-[3]も使用した.サンスクリットの達人となるためには,学習者は両種の表現方法を学ぶべきであるとバッティは考えたのである.
  • 間瀬 忍
    印度學佛教學研究
    2008年 56 巻 3 号 1081-1085
    発行日: 2008/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    パーニニ文法家は,『アシュターディアーイー』(Astadhyayi)において規定されている規則あるいは操作の適用順序を決定するためにantaranga-bahirangaという概念を用いる.antarangaとは先に導入される要素を根拠(nimitta)とする操作あるいは規則であり,bahirangaとは後で導入される要素を根拠とする操作あるいは規則である.antarangaはbahirangaに対して優先適用される.このことを規定した解釈規則が二種パーニニ文法家によって提案されている.(AP)「antarangaが適用されるべきとき,bahirangaの適用はまだ成立していない」(asiddham bahirangam antarange)(BP)「antarangaはbahirangaより強力である」(antarangam bahirangad baliyah)
    パタンジャリ
    は,これらのうちBPの必要性を否定している.彼の否定の根拠は何か.それを明らかにするのが本稿の目的である.BPはantarangaとbahirangaが同時に適用可能なときにのみ,antarangaが優先適用されることを規定する解釈規則である.二つの操作が同時に適用可能であるということはそれらの根拠が同時に存在しているということを意味するが,それら根拠となる要素導入の同時性は意味しない.APは,先に導入される要素を根拠とする操作(antaranga)が先に適用可能となり,あとで導入される要素を根拠とする操作(bahiranga)があとで適用可能となることを規定する.もしBPの適用環境においてもこのAPの適用条件が見いだされるならば,APによって規則適用の優先性が決定されるであろう.これが
    パタンジャリ
    がBPの必要性を否定する論理である.ナーゲーシャは彼の『パリバーシェーンドゥシェーカラ』においてこの論理を見事に解明している.
  • 伊藤 麻希
    日本女子体育連盟学術研究
    2020年 36 巻 31-46
    発行日: 2020年
    公開日: 2020/07/02
    ジャーナル フリー

    この研究は,66名の女子大学生を対象にヨーガの実践の授業を行い,その効果の有効性をテキストマイニング法によって検証するものである。

    授業では,ヨーガの目的である心と身体の統合状態を目指した。そのため,アーサナの練習だけでなく,根本経典『ヨーガ・スートラ』の学習も併せて行い,自らの心や身体と向き合い,心と身体の関係について理解を深める指導を行った。そして,授業を通して感じたことを3つの質問(①「あなたにとって『心』とはどういうものですか?」,②「あなたにとって『身体』とはどういうものですか?」,③「あなたにとって『心』と『身体』はどのような関係ですか?」)に沿って4回回答させ,その記述の推移をKH Coderによって検証した。

    その結果,それまで受講生たちが抱えていたストレスや不調の大幅な改善は見られなかった。しかし,具体的な記述の分析により,自己肯定感が向上し,心身の不調を主体的に改善しようとする意欲が高まったことが明らかとなった。そして,授業内だけでなく,日常生活における意識の変化が見られた。また,深い呼吸が心と身体のつながりを実感させる大きな要因となることが分かった。

  • 榊 和良
    印度學佛教學研究
    2008年 56 巻 2 号 787-782
    発行日: 2008/03/20
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
  • 矢崎 長潤
    印度學佛教學研究
    2018年 67 巻 1 号 425-422
    発行日: 2018/12/20
    公開日: 2019/09/07
    ジャーナル フリー

    The Cāndravyākaraṇa, the Sanskrit grammar text consisting of the Cāndrasūtra by Candragomin (ca. 5th c.) and its commentary Cāndravṛtti by Dharmadāsa (ca. 5–6th c.), is called “Buddhist Grammar” by modern scholars. It aided Buddhists to study Sanskrit grammar. Previous studies have tried to point out the work’s Buddhist characteristics. However, this approach is open to question. This paper examines whether the authors composed their work by considering grammatical arguments found in Buddhist literature. The paper also focuses on the argument regarding the usage of the Ktvā suffix in the Abhidharmakośabhāṣya by Vasubandhu (ca. 4–5th c.). He provided an etymological interpretation of the word pratītyasamutpāda (dependent origination), and discussed the validity of using the Ktvā suffix against grammarians. To justify his interpretation, he followed the suggestions by Kātyāyana (ca. 3rd c. B.C.). Accordingly, it seems important for Buddhists to study Kātyāyana’s suggestions. However, Candragomin and Dharmadāsa did not prescribe them. The commentator Ratnamati (ca. 10th c.) noted them as a supplementary explanation in his Cāndravyākaraṇapañjikā. This leads us to presume that the authors attached less importance to Buddhist arguments in composing their work. For this reason, we should be careful in designating the Cāndravyākaraṇa as “Buddhist Grammar.”

  • 高木 〓元
    印度學佛教學研究
    1974年 22 巻 2 号 543-550
    発行日: 1974/03/31
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
  • 友成 有紀
    印度學佛教學研究
    2015年 63 巻 3 号 1197-1203
    発行日: 2015/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    ミーマーンサー学派のクマーリラは,『タントラヴァールッティカ』で,パーニニ文法学の「権威(pramana)」である三聖,すなわちパーニニ,カーティヤーヤナ,
    パタンジャリ
    の作品から「言い間違い(apasabdana)」としていくつかの語形を列挙して批判する.クマーリラの批判の主眼は,ひとえにそれらの語形が非パーニニ文法的である,という点にある.後代の文法学者はこれらをパーニニ文法の枠内で説明しようと「既成形(nipatana)」や「アークリティ・ガナ(akrti-gana)」といった道具立てをも用いて論じるが,これらの道具立てにはミーマーンサー学者からの更なる批判が向けられていた.一連の議論を総合すると,文法学という学問に対して文法学者自身が抱いていたイメージと,ミーマーンサー学者が期待していたそのあるべき姿との差異が浮き彫りになる.
  • 畝部 俊也
    印度學佛教學研究
    1995年 43 巻 2 号 950-948
    発行日: 1995/03/25
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
  • 宮坂 宥勝
    智山学報
    1971年 19 巻 A15-A24
    発行日: 1971/03/21
    公開日: 2017/08/31
    ジャーナル フリー
  • 野沢 正信
    印度學佛教學研究
    1982年 31 巻 1 号 452-449
    発行日: 1982/12/25
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
  • 近藤 隼人
    印度學佛教學研究
    2017年 66 巻 1 号 485-480
    発行日: 2017/12/20
    公開日: 2019/01/11
    ジャーナル フリー
  • 中村 了昭
    印度學佛教學研究
    1960年 8 巻 1 号 300-302
    発行日: 1960/01/25
    公開日: 2010/03/12
    ジャーナル フリー
  • 小川 英世
    印度學佛教學研究
    1988年 37 巻 1 号 446-443
    発行日: 1988/12/15
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
  • 眞鍋 智裕
    印度學佛教學研究
    2020年 68 巻 3 号 1141-1146
    発行日: 2020/03/25
    公開日: 2020/09/10
    ジャーナル フリー

    16世紀後半から17世紀前半のアドヴァイタ・ヴェーダーンタ学派の学匠であるMadhusūdana Sarasvatīは,彼のバクティ論の著作Bhaktirasāyana (BhR)に対する自註Bhaktirasāyanaṭīkā (BhRṬ)において,〈人間の目的〉(puruṣārtha)としてkarmayoga, aṣṭāṅgayoga, jñānayoga, bhaktiyogaの四つのヨーガ(実践)を提示する.これらはそれぞれ,祭祀行為の実行,

    パタンジャリ
    (Patañjali)のYogasūtra (YS)に基づくヨーガの実践,アドヴァイタ学派におけるブラフマンの明知(brahmavidyā)獲得のための実践,ヴィシュヌ教(Vaiṣṇava)の一派であるバーガヴァタ派(Bhāgavata)の信愛(bhakti)の実践のことである.従来のマドゥスーダナ研究は,これらのうち,jñānayogaとbhaktiyogaとの関係に専ら焦点を当てており,マドゥスーダナの実践論において四つ全てのヨーガを体系的に理解しようとはしてこなかった.そこで本稿では,マドゥスーダナの実践論を体系的に理解するため,先ず,彼の修行体系において,特にjñānayogaとの関係においてaṣṭāṅgayogaが占める意義を考察した.

    マドゥスーダナは,aṣṭāṅgayogaを思考器官の止滅の手段と考えている.また,その思考器官が止滅した時,アドヴァイタ学派におけるブラフマンの考究のための必要条件である心の静穏・自制等が達成されるため,マドゥスーダナは,aṣṭāṅgayogaを静穏・自制等の達成の手段であると見做している.そして,静穏・自制等の達成,ヴェーダーンタの文の聴聞・思惟・熟考の達成,それらの修習という次第を経て真実の知が生起するため,マドゥスーダナはaṣṭāṅgayogaを,間接的に真実の知の手段であると考えている.これらのことは,マドゥスーダナは,aṣṭāṅgayogaをブラフマンの考究のための前段階に位置づけているということを示していよう.そしてこのことは,BhRṬにおいてaṣṭāṅgayogaがjñānayogaの前段階とされていることと一致している.

  • 小串 正直
    印度學佛教學研究
    2010年 58 巻 2 号 881-878
    発行日: 2010/03/20
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
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