20世紀は, 他の何にもまして三つの異様な構成要素によって作られた。a) 肥大の一歩をたどる政治的怪物「国民国家」, b) とうてい自由という形容詞が相応しくない市場経済と巨大企業との結合合体, c) 科学と若干の応用である「技術」ではなく, マーケッタブルな R & D テクノロジーとそれによって消費者のニーズなるものを操作する,「科学」の奇形児である「科学技術」。
1990年代初頭に, ホッブスボームは国民国家内部に拡大しつつある「公的世界」と「私的世界」との橋渡しのひとつとして, マス・スポーツ・スペクタクルに注目した。ちょうど約100年前, ヴェブレンは今世紀に対する一連の鋭い診断を下した。今世紀は人間生活を歪曲する「巨大企業」の出現した時代であり,この組織は法的・名目的には不在所有制によって,しかし実体においては「有閑階級」にアイデンティティの根拠を求めざるをえない大規模なホワイトカラー層によって運営されること, である。さらに, 最近社会学者スチュウアート・ユーエンはこの予言がヴェブレンの想像した以上に現実となっていることを明確にした。
本論文は, これらの今世紀に関する先行研究を吟味しつつ, スポーツ社会学者, いやいかなる分野の研究に従事する社会学者といえども, 上記の三つの構成要素を無視すべきでないことを論じる。20世紀が終わろうとする今日, 今世紀は一見さまざまな形態のスポーツおよび関連活動が盛行したかに見受けられるが, はたしてそれは現実であったと断言しうるか, という疑問を提起しようとするものである。
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