清代のモンゴル(一六三五~一九一一)は、清朝が導入した「盟旗」という軍事行政組織によって統治されていた。しかし、盟旗組織下におけるモンゴルの諸地域社会には、地域的・歴史的特性が存在した。本論文は、一九世半ばから二〇世紀初頭までのオトグ旗に着目し、同旗の社会構造と同旗における裁判の実態を解明しようとするものである。
まず、オトグ旗の社会構造について、行政組織と身分秩序を中心に概観した。旗内ではザサグと旗衙門が権力の中心と、それ以外の旗内の領域は地方(「周辺」)と、それぞれ位置づけられていた。旗衙門には役人が交替制で勤務し、案件処理を含んだ日常行政を担っていた。地方にも役人が存在し、旗衙門から遠く隔たった地域の行政を処理していた。また、オトグ旗には「ジャルグチ」というモンゴル固有の役職も存在し、主に漢人に関わる業務を担当していた。これらの役人と並んで、地方では貴族の身分を持つタイジが平民に対して権勢を振るっていた。
次いで、裁判事例の分析を通して裁判の実態を記述した。すなわち離婚や家畜をめぐる争い、不法に拘束された事件、人命(自殺)に関わる案件を紹介し、分析した。これらの事例によれば、民事的性格の強い案件は地方で、刑事的性格の強い事案は旗衙門で処理される傾向にあった。ただし、民事的性格の強い案件は全てが公権力による裁判によって処理された訳ではなく、地方において仲裁や調停によって処理されることもあったことも指摘された。
第三に、地方と旗衙門における裁判の流れについて記述したうえで、当時の裁判実務が孕んでいた問題点とそれに対する盟の対策について論じた。盟の対策においては、第一に、訴訟は現状のやり方と異なり、まず原告の所属する蘇木の蘇木章京に提起すべきものとされた。これによって蘇木章京→扎蘭章京→梅林章京→旗衙門(ザサグ)という軍事行政組織とその官僚序列を基盤とし、案件の難易度に応じて段階的に序列の下方から上方へと持ち送りがなされる裁判制度が整えられた。対策においては、第二に、地方にいる、裁判権を付与されていないタイジや役人による「私的な裁判」の禁止がなされた。
最後に、本論文で得られた知見をまとめたうえで、清代のオトグ旗の社会構造と裁判の実態が同時代のアラシャ旗やハラチン右翼旗の場合と比べてどの点で異なるのかについて略述した。
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