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クエリ検索: "ポンサーリー県"
9件中 1-9の結果を表示しています
  • 雨森 直也
    E-journal GEO
    2024年 19 巻 1 号 114-127
    発行日: 2024/03/15
    公開日: 2024/03/16
    ジャーナル フリー
  • *横山 智, インサイ パンサイ
    日本地理学会発表要旨集
    2014年 2014s 巻 509
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/03/31
    会議録・要旨集 フリー
    はじめに
    ラオス北部における農林産物の契約栽培は、中国企業とのパラゴムノキに代表される。中国雲南省でパラゴムノキが試験的に開始されたが1948年であり、1956年から政府の農園で栽培が始まり、それ以降は中国政府の奨励でゴムの植林が西双版納州で急激に広がった。そして、1990年代の中国におけるゴムの需要増によって、ラオスでも植林が開始され、近年、急激に面積を拡大させている。しかし、ラオスの中国国境沿いでは、パラゴムノキに加えて、2000年以降からは乾季の水田裏作物の契約栽培が導入され、農民の生業と伝統的な土地利用が大きく変化している。
    本発表では、中国国境域で生活する少数民族の農民が中国の影響を受けつつも、いかにその変化に対応しているのか、説明したい。特に2000年以降に導入された露地作物の契約栽培を取り上げ、地方行政と農民の対応を周辺という地理的要因に着目しつつ、契約栽培が進展した要因を検討する。

    ラオス北部の中国国境における契約栽培の導入
    研究対象地域は、図1に示すラオス北部
    ポンサーリー県
    ブンヌア郡である。そこでは、1990年代終盤からサトウキビの契約栽培が導入され始め、2000年代に入ると乾季水田裏作、そして2009年からは、山地部でのバナナやコーヒーの契約栽培が開始された。作物は、2国間の住民だけに開放されている、ローカル国境ゲートを利用して中国に輸出されている。

    契約栽培の導入・進展の要因
    国境の農民が中国の契約栽培を受け入れるに至ったもっとも大きな要因は、ポンサリー県のような冷涼な気候を有する地域では、水が得られても二期作が出来なかった点であろう。当然、国境の農民たちも、乾季の稲作はできなくても、小規模ながら、地元の市場向けの作物を栽培してきた。しかし、国境付近は、人口密度も低く大きな都市もないことから、市場が限られ、乾季水田裏作は小規模であった。そうした使われていない土地に目を付けたのが、中国雲南省の企業であった。 次に、国境の農民にとって言語の障壁が低かったことが契約栽培の拡大につながったことがあげられるだろう。研究対象地域の主要民民族は、ラオス側も中国側もタイ・ルー族である。国民国家という枠組みで考えると、両国では少数民族であるが、ラオス—中国国境沿いにおいては、比較的人口が多い民族であり、技術移転が比較的容易に行われた。
    最後に、ローカル国境の弾力的な運営制度が契約栽培の進展に大きく寄与していることが明らかになった。ローカル国境は、県によって管理され、そこを通行するにはパスポートは必要としない。しかも、どの国境からどの作物を輸出するか、農林産物の輸出管理も県が担っているため、新たな作物が導入されても県の判断だけで迅速に対応することができる。研究対象地域の国境ゲートでは、1996年から開始されたサトウキビの契約栽培を皮切りに、2000年代に入り乾季農作物の輸出に次々と対応してきた。それに対して、国際国境ゲートは、中央政府が管理する国境なので、パスポートが必要となるだけでなく、関税手続きも面倒であり、近年は農林産物の輸出にはほとんど利用されていない。このような点から、県が管理することが認められたローカル国境の存在そのものが農林産物の契約栽培を進展させたと言える。

    おわりに

    契約栽培は、ラオスの国境の少数民族の生活を大きく変えた。しかし、中国側の需要をラオスの少数民族が受け入れざるを得なかったという状況で今に至っているわけではない。国境線が引かれた1900年から今に至るまでのおよそ100年間にわたり、国境が地理的に周辺と置かれてきたことで、契約栽培を受け入れるような素地が歴史的に醸成されてきたのである。これまでマイナスの要素と認識されてきた地理的な周辺性を、国境の少数民族はある意味逆手にとって、それを彼らなりに活用してきた結果として捉えることができよう。
  • 横山 智
    E-journal GEO
    2018年 13 巻 2 号 473-485
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/10/04
    ジャーナル フリー
  • 横山 智
    E-journal GEO
    2019年 14 巻 1 号 42-52
    発行日: 2019年
    公開日: 2019/01/29
    ジャーナル フリー
  • 矢野 順子
    東南アジア研究
    2012年 50 巻 1 号 151-154
    発行日: 2012/07/31
    公開日: 2017/10/31
    ジャーナル フリー
  • 園江 満
    東南アジア研究
    2011年 48 巻 4 号 458-463
    発行日: 2011/03/31
    公開日: 2017/10/31
    ジャーナル フリー
  • 園江 満, 山本 宗立, 縄田 栄治
    熱帯農業
    2004年 48 巻 3 号 181-193
    発行日: 2004/09/01
    公開日: 2010/12/08
    ジャーナル フリー
    東南アジア唯一の内陸国ラオスは, 多民族国家であり, 河岸において水田と焼畑双方で稲作を行うタイ系民族と, 主に焼畑を生業とした非タイ系諸民族との間で居住標高が分かれ, 独自の生産様式を保持しながらも相互の物質的・文化的交流によって, 独特の農耕文化複合が形成されている.本研究では, ラオス北部のルアンパバーンでみられる栽培稲について, 籾型など穀実の外観および籾のフェノール反応等による遺伝的形質並びに早晩性などの生態的特性を分析することで, ラオス北部の稲作の特徴を明らかにした.調査地域における栽培稲の籾型は, 松尾 (1952) によるb型が支配的であった.農民によるイネのもち・うるち性の区別は, ヨード・ヨードカリ反応による判別と一致しており, もち品種が卓越していたが, うるち品種では籾型がc型に偏っていた.またフェノール反応に関しては, 反応型と無反応型が混在していたが, 水稲ではもち・うるち性を問わず反応型が多かった.一方で, b型の陸稲もち品種は, ほとんど反応せず, 熱帯ジャポニカの品種群に属していると考えられる.いくつかの穀実形質と生態的特性についてクラスター分析を行った結果, 各品種は籾型によってA・B二つのクラスターに大別され, クラスターAのほとんどのb型の品種はもち性で, 陸稲・水稲の別やフェノール反応などによって三つに分けられた.
    調査地域では, 多くの民族がクラスターA-2に属する陸稲もち品種を栽培しているが, 一部の民族では陸稲うるち品種に対する嗜好があるものとみられた.また, タイ系民族の栽培品種は, インディカ稲を遺伝的背景にもつと考えられる, クラスターA-1に属する水稲品種とクラスターBに属する品種群の栽培も行っていた.さらに, 聞取りの結果では, 一部で水陸兼用種の存在が示唆されており, 今後の検討が必要である.
  • 山田 紀彦
    アジア経済
    2008年 49 巻 8 号 28-60
    発行日: 2008/08/15
    公開日: 2022/11/16
    ジャーナル フリー
  • パテート・ラーオの教育政策とプロパガンダを中心として
    矢野 順子
    東南アジア -歴史と文化-
    2008年 2007 巻 36 号 3-35
    発行日: 2008/03/31
    公開日: 2010/02/25
    ジャーナル フリー
    This paper intends to show how the Lao revolutionary forces, Pathet Lao (PL) used the Lao language (Lao) in their process of building up the Nation, in which the ethnic Lao had played a leading role. At the same time, it also examines the ideology they created to make Lao the national language, regardless of the fact that the ethnic Lao, who used it were not the majority of the population. In other words, this paper mainly analyzes the PL's policy on education and propaganda.
    To mobilize the people to their revolutionary movement, PL conducted a vigorous literacy campaign in their liberated zone. Since around 1964, they began to carry out the policy of promoting Lao among their people and developing the languages of the minority people. However, although among the minority languages, only the Hmong language was given to literation, PL did not actually intend to promote the minority languages to the same level as Lao. So, until the end of 1960's, Lao became the only medium of instruction for all levels of the PL schools and, served as the national language in a way.
    On the other hand, it was the moral education that supported this institutional superiority of Lao in ideology. In PL's textbooks, Lao was regarded as the heritage of their ancestors who also included the heroes of the minorities, and love for the Lao was regarded as the way to reach love for the nation. Here, literacy of Lao was regarded as the base of all kinds of progress, and a means for all people to have an equal opportunity for progression. Furthermore, while some textbooks illustrated each minority like a member of the big “Laos” family, they also suggested the dominance of “progressive” ethnic Lao. Since the textbooks written in Lao were virtually the essence of political education, Lao became the foundation on which to form a nation by conveying the PL political ideology to ethnically divergent peoples.
    Moreover, in the area of Royal Lao Government (RLG), which had a tradition of “colonial and slavish” French education, the PL's propaganda that emphasized on “Lao language education” as “national” education attracted many people, who had been struggling to rise up to the “language nationalism” to support PL's movement.
    As a result, Lao was selected as and became the only “national language”. This also served as the means to create the nation by taking two forms. To the PL liberated zone, it meant to infiltrate the thought of ethnic Lao's superiority into their minds, and to the RLG area, it meant to stimulate the growing consciousness of the “Lao language nationalism”.
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