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53件中 1-20の結果を表示しています
  • *北川 尚美, 米本 年邦
    化学工学会 研究発表講演要旨集
    2009年 2009f 巻 E215
    発行日: 2009年
    公開日: 2010/05/26
    会議録・要旨集 フリー
  • *佐藤 隆之介, 市田 良夫, 森本 喜隆
    精密工学会学術講演会講演論文集
    2005年 2005A 巻 D16
    発行日: 2005/09/15
    公開日: 2006/04/18
    会議録・要旨集 フリー
    近年,固定砥粒による研磨法が注目されているが,固定砥粒研磨法によりスクラッチフリーの良好な表面を得るためにはドレッシングによりパッドの表面状態を調整する必要があり,ドレッシングによる切れ刃生成挙動の把握は重要である.本研究ではピラミッド構造研磨パッドのドレッシングにおける砥粒切れ刃生成過程をSEMにより連続的かつ三次元的に観察し,適切な砥粒切れ刃を得るためのドレッシング条件を検討した.
  • *中野 俊哉, 谷水 香奈美, 村木 里志
    日本人間工学会大会講演集
    2011年 47spl 巻 1C4-3
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/10/18
    会議録・要旨集 フリー
  • *池谷 和信
    人文地理学会大会 研究発表要旨
    2008年 2008 巻 513
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    バングラデシュは、約9割がイスラーム教徒であり、ブタは好まれない動物である。しかし、その起源は定かではないが、非イスラム教徒によってブタの遊牧がおこなわれてきた。本報告では、2007年から2008年にかけての4回にわたる現地調査から、ブタの遊牧の実態を、移動形態、管理技術、生産・流通システムなどから把握することを目的とする。
  • ―遊興地の形成に着目して―
    *加藤 晴美, 双木 俊介, 花木 宏直, 山邊 菜穂子
    人文地理学会大会 研究発表要旨
    2009年 2009 巻 410
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
    本報告の目的は,遊興地の存在に焦点を当て,軍港都市横須賀における都市形成の過程において,遊興地がいかに設置され,あるいは再編されたのか,地方名望家による地域開発という観点から明らかにすることである. 本報告で取り上げる横須賀の地域開発は,幕末期の横須賀製鉄所建設に始まった.明治期には海軍鎮守府や海軍工廠など多くの軍事施設が置かれ,軍港都市として急速に発展するとともに,港湾都市に不可欠の空間とされる遊興地も設置され,賑わいをみせた.発表者らはこれまでに横須賀に関し,海軍と結びついた地方名望家らが市街地造成などの地域開発において指導的役割を果たしたことを明らかにした(双木・藤野2009).本報告では,幕末期から明治期に設置された大瀧町・柏木田の2つの遊廓と,大正期の埋め立てによって造成された安浦地区に置かれた遊興地を事例とし,地域の有力者の一人である永島庄兵衛家との関わりに着目しつつ,その形成のプロセスを検討する. 永島庄兵衛家は,江戸期には三浦郡公郷村の名主を務め,明治期以降は土木建設業を営んだ.崖の切り崩しや海面の埋め立てによって可住地の拡大が図られた横須賀では,地元の民間資本によって地域開発が進められた.永島家は,横須賀の地域開発にも他の名望家らとともに積極的に関与し,海面の埋め立てや道路開削などに従事した.都市形成の過程において,芸娼妓が置かれた遊興地も開発された.1867(慶応3)年には,永島庄兵衛らによって外国人向け遊女屋の開設が,埋め立てによって開発された新開地に設置された.1868(慶応4)年8月に遊女屋5軒から始まった大瀧町遊廓はその後日本人にも開放され,海軍将校など比較的富裕な人々を客層とする貸座敷が,明治中期には18軒営業していた.大瀧町遊廓は明治21(1888)年の火災によって消失したが,神奈川県は大瀧町での遊廓再建を許可せず,移転を命じた.永島庄兵衛らの協議によって,公郷村字柏木田への移転が決定された.このように,地域開発の初期において,有力者によって遊興地の設置が図られたことがわかる. 大瀧町及び柏木田の遊興地がいわゆる公娼地であったのに対し,大正期に中心市街地からやや外れた海岸部の埋め立てによって造成された安浦地区には,銘酒屋などと呼ばれる,私娼を置く店が立ち並んだ.私娼を中心とした新興の遊興地となった安浦開発の基礎にも永島家は部分的に関与しており,安浦の埋め立て工事は,永島家の主導によって行われたものであった.大正12(1923)年に起こった関東大震災によって大きな被害を受けた横須賀市は大規模な都市復興計画を実施し,その一環として,安浦の地所の一部に,若松町・大瀧町・逸見町などに散在していた銘酒屋を移転させた.その結果,安浦3丁目には整然とした町割りが施され,約80軒の銘酒屋が立ち並び,周辺には料理屋や居酒屋などが立地する,遊興地となった.私娼を中心とした新興の遊興地となった安浦は,船乗りや工場労働者,漁師らを主な対象としていたといわれる. 以上のように,軍港都市横須賀では,明治期以降,開削と埋め立てを繰り返すことによって市街地を延伸させていった.その中で,遊興地は中心市街の外縁部に開発された新開地に設置され,遊興地を中心とした地域の発展を促進した.横須賀における遊興地や,遊興地が置かれた埋め立て地形成のプロセスには,永島庄兵衛をはじめとする地方名望家や軍の意向,関東大震災後の復興計画などが大きく影響していたと考えられる.遊女屋の設置や,新開地の形成に主導的な役割を果たした永島家は,幕末期からの御用商人として,また海堡建設を通じて得た幕府・軍とのつながりを基盤として蓄積した資本を,地域開発に投じた.それは単に永島家の多角経営の一端を構成していただけでなく,軍港都市横須賀における空間の形成と再編に大きな影響を及ぼしたと考えられる.
  • *齋藤 誠二, 村木 里志, 松本 和也, 高尾 学
    日本人間工学会大会講演集
    2011年 47spl 巻 2C3-9
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/10/18
    会議録・要旨集 フリー
  • 香川 真二
    バイオメカニズム学会誌
    2010年 34 巻 4 号 286-290
    発行日: 2010年
    公開日: 2016/04/15
    ジャーナル フリー
    3 軸加速度計を用いた歩行計測をリハビリ場面において臨床応用するための3 つの課題について,われわれの取り組み を解説した.①多忙な臨床業務の中で,素早く歩行状態を測定するためには,加速度計を用いた歩行計測を確立させる必要があった.②加速度計によって得られたデータを患者に理解してもらうためには,リサージュ図形を用いたデータの可視化が有効であった.③加速度計を用いた歩行の異常状態と異常時期が特定できたことにより,重点的にその時期に必要な筋力や可動域の練習プログラムを構築することに役立てることができると考えられた.
  • *福間 陽太, 山田 博史, 田川 智彦
    石油学会 年会・秋季大会講演要旨集
    2009年 2009f 巻 1E04
    発行日: 2009年
    公開日: 2010/01/08
    会議録・要旨集 フリー
    近年、均一系触媒や酵素を用いたバイオディーゼルの合成方法に変わるものとして固体触媒を用いた合成方法が検討され始めている。流通式反応器を用いたバイオディーゼルの合成方法において、原料にオリーブ油・エタノール、触媒にいくつかの固体触媒を用い、各種反応条件の影響を検討した。
  • *安藤 哲郎
    人文地理学会大会 研究発表要旨
    2005年 2005 巻 410
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
    会議録・要旨集 フリー
     本発表では、平安京における「成長」の概念について、日記や物語などの歴史的資料(史料)を基に、都のモチーフや動静を理解して考察を試みた。
     都市の場合には人口や経済から成長の探求が行われるが、都は生産性と別次元にある。そこで、都と必要十分の関係にある天皇家や官人がどう考えていたか、という面から考えることとした。都が「宮処」である観点も大きく、また彼らの考え方を知る術もあるからである。
     都は天皇が常に位置していることが求められたが、時折京外へ出かけた。その行幸(上皇の場合は御幸)から理解を試みるため、「京外空間」を糸口として考えた。まず、平安遷都前後における天皇遊猟の目的地から、遷都行動(遊猟)が平城・長岡・平安3京を相互に結び付けた可能性がみられた。また、白河上皇時代の行幸・御幸状況から、前期は成人天皇と共に鳥羽を王家の地として人々に認識させ、後期は幼主のために摂関家に由緒のある白河を王家の地になすことで王権伸張に役立てたとみられた。
     天皇は次第に遠出をしなくなり、京周辺の神社などから日帰りするようになった。一方で王家の地となった鳥羽や白河などは日帰りしなくてもとくに指摘されない。そういう意味では、都人は自由になる京外空間が広がっている。
     ただし、平安京が外を好まない傾向は残っていた。比べてみれば、「都会」と表現されていた太(大)宰府は御笠下流の博多に鴻臚館を設け、そこと一体となったまちであった。一方平安京は交流施設を近くに持たなかった。京に近いところが都とは違うことも表現されている。
     平安京は限られた空間の中で完結する都であり、他との接触を好まない都であることは続いていたが、その周辺部が平安京の意味付けのために使われ、自由に訪問できる空間として整備されることがあった。都人の活動空間が広がったと意識される意味では「成長」と言える可能性がある。
  • *佐藤 理夫, 横山 義仁, 志賀 隆寿, 尾形 宏樹, 志賀 雄太, 山川 晃広, 鈴木 矩史, 岩見 政弘, 岩見 孝之, 斉藤 充志
    廃棄物資源循環学会研究発表会講演集
    2010年 21 巻 B10-2
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/07
    会議録・要旨集 フリー
    食品卸会社と大学が連携して、廃食用油から製造したバイオディーゼル燃料(BDF)の実証試験を行っている。食品卸会社は商品配送と同時に廃食用油を回収するため、収集コストはゼロとできる。元の油種・使用履歴・使用した機器などを把握することができ、これらとBDFの品質との関係を調べることができる。 低温特性に優れるのは、動物性油脂を含まない菜種油であることを明らかにした。低温で析出し、燃料系の閉塞の原因となるものは、飽和脂肪酸メチルエステルであることを確認した。この析出物を低温で除去することにより、低温特性が改善される。 菜種油を中心としたBDF製造と低温析出物の除去により、福島市周辺の厳冬期を、添加剤を加えることなく、配送車両等を運行することができた。
  • 座長:白崎 英明, 寺田 修久
    日本鼻科学会会誌
    2008年 47 巻 3 号 296-298
    発行日: 2008年
    公開日: 2009/09/17
    ジャーナル フリー
  • 古川 祐貴
    長崎県対馬歴史研究センター所報
    2022年 2 巻 19-26
    発行日: 2022年
    公開日: 2023/01/06
    研究報告書・技術報告書 オープンアクセス
  • *橋田 光太郎
    人文地理学会大会 研究発表要旨
    2010年 2010 巻 207
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
    会議録・要旨集 フリー
    分野:観光地理学・都市地理学 発表概要:2009年人文地理学会大会で発表した内容の継続的研究で,      門司港「レトロ」地区の観光地の形成過程を整理し,      現在進んでいるまちづくりを観光地化の視点から報告する。       特に,   第3期事業の長期プランである「門司港レトロ観光街づくりプラン」, 全国初の観光専用鉄道として「レトロ」地区で運行を始めたトロッコ列車      「潮風号」,      旧料亭「三宜楼」を巡る市民運動,      栄町銀天街で展開されている商店街の活性化      の動向などを中心に報告する。
  • *上杉 和央
    人文地理学会大会 研究発表要旨
    2005年 2005 巻 407
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
    会議録・要旨集 フリー
    本発表は,大坂天満宮の祝部渡辺吉賢(1703-?)を特に取り上げ,彼がどのような知的交流を行い,その中で地図がどのような役割を果たしていたのかについて検討する。主に取り上げる資料は,現在大阪歴史博物館に所蔵されている旧渡辺吉賢所蔵地図(奥田コレクション)である。
    調査の結果,吉賢が交流があった人物として木村蒹葭堂や平賀源内(国学者)などが確認された。彼らは物産会を通じた交流であり,その中で地図を交換していたりした。また,地図を通じた交流として森幸安,宇野宗明(町人),久保重宜(庄屋)などが確認された。また本居宣長も吉賢所蔵の地図を利用した痕跡がある。
    18世紀において,地図は知的交流の潤滑油的役割としていたのである。
  • ―「はんど」と呼ばれる水甕を中心として―
    *阿部 志朗
    人文地理学会大会 研究発表要旨
    2008年 2008 巻 108
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    石見焼は19世紀半ばから島根県西部の石見地方(現在の大田市、江津市、浜田市の一帯)で広く生産されてきた。とくに「はんど(はんどう)」と呼ばれる大きな水甕を中心とする粗陶器の生産が中心であり、各種文献等には「江戸時代から明治時代にかけて はんど が 北前船 で北海道から東北、北陸など全国各地へ運ばれた」と記載されている。本報告では日本海沿岸各地の水甕の分布確認と、それらが 石見焼のはんど かどうかの産地同定を、消費地と生産地双方での現地調査および文献調査から試みる。さらに はんど が北前船で流通した背景を考察することから江戸明治期の北前船による買積方式の物流の実態とその中での石見焼の位置づけを論ずる。調査はおもな北前船寄港地である小樽、江差、松前、酒田、遊佐、加賀橋立などの各消費地と、石見、越前、信楽、常滑、唐津、笠間、益子などの陶器生産地を対象とした。消費地調査では調査したすべての寄港地で北前船ゆかりの旧家または資料館に現存する「はんど」らしき水甕を多数確認したが、それらのほとんどは北陸地方などの石見以外の製品だと認識されていた。一方、生産地調査で多くの陶工や各地の専門家への聞き取りにより、形状、施釉の状態、江戸明治期の大甕生産技術の有無などの視点から消費地の水甕が「石見焼」の「はんど」である可能性が高いことが推定できた。文献・統計資料では、明治期の石見地方で北陸地方の下り船による焼物の買積記録が多いこと、明治期の石見焼産地の陶器生産が高水準にあったことなどから、北前船による はんど の日本海沿岸地方への十分な供給が裏付けられた。また消費地の水甕に明治中~大正初期に江津の臨海部で製造されたことが断定できるものが含まれることも分かり、北海道~北陸地方に明治後期の 石見焼のはんど が確実に流通していることが明らかになった。消費地における はんど の産地名(石見地方)と運搬してきた船籍の国名(おもに北陸地方)との混同・誤謬も、北前船による はんど 流通の事実や消費地における「北前船」の影響力の大きさを裏付けるものといえる。このような石見焼のはんど流通の背景として、まず耐水性に富む品質が寒冷地での販路拡大の一因であったことがあげられる。これまで北前船の商品流通で重視されてきた産地間価格差による優位性は他産地商品の売価の比較などからみて はんど には認められない。また、幕藩体制下の専売品ではなかった はんど の買積件数は明治期に急増し、和紙や鉄など石見地方の近世専売特産品は逆に衰退する。はんど が専売制による流通システムの崩壊と近代流通システムの確立の狭間で興隆したことが推察できる。一方、はんど が船積みに適する形状であり空荷の下り船に積まれたことからバラスト代わりの役割も果たしたこと、さらに陸上輸送では壊れやすい はんど の分布が明治期以降の陸上交通網の発達から遅れた地域にトレースできることなど、海上輸送の商品としての優位性も はんど の日本海沿岸での広範囲な分布の背景として指摘できる。このように 石見焼のはんどは、北前船に代表される海上交通が日本海沿岸地域の物流を長く支えたことを今に伝える象徴的な交易品であり、近世~近代の国内物流システムの変容をとらえるうえで看過できない対象物であるといえよう。
  • ―開化期知識人の言語意識を中心に―
    中西 恭子
    朝鮮語研究
    2022年 9 巻 61-89
    発行日: 2022/02/22
    公開日: 2022/03/31
    ジャーナル フリー
     本稿の目的は、周時經によってㅎパッチムが提唱されるまで、それに相当する音‘X’はどのように表記されてきたか、また“朝鮮語綴字法統一案”(1933)成立までの十数年間、ㅎパッチムをめぐる国語(朝鮮語)学者・文学者らの実践はどうだったのかを調査することにより、同パッチムに対する母語話者集団の意識をさぐることにある。
     まず、開化期の表記法統一の過程でㅎパッチムと並び問題となった‘ㅌ, ㄲ, ㄳ, ㄵ, ㄾ, ㄿ, ㅄ, ㅋ, ㅆ, ㄽ, ᇚ’各パッチムの、歴史資料での出現状況を調べてみた結果、現在用いられていない‘ᇚ’以外はすべて母語話者集団の意識のなかに、少なくとも潜在的には存在していたことがわかった。それに対し、ㅎパッチムは周時經以前に出現事例がなく、‘X’の存在は後続音の表記等により確認するほかない。‘X’は[ㅎ]で連音化することが多いとはいえ、‘ㅅ’や‘ㄴ’(または‘ㄷ’)で表記されたり、何ら表記に反映されなかったり、また稀には存在の痕跡だけを残す、そのような音であった。‘X’が特定の音価と認識されていたとは言いがたい。
     また、“한글論争論説集(下)”を対象に、当時ㅎパッチムがどれだけ実践されていたかを調査した結果、ㅎパッチムを肯定しつつも実用例がなかったり、過剰に用いられる例が観察された。それが執筆者による選択の結果であったか出版社側の方針によるものだったか判然としない場合もあるが、いずれにせよ開化期の知識人にとってもㅎパッチムは自然な意識の発露だったわけではなく、「終聲復用初聲」という大原則のもと、他の議論に埋もれる形で採用に至ったものと言える。
  • *小玉 英幸, 景山 陽一, 西田 眞, 関本 隼也
    電気関係学会東北支部連合大会講演論文集
    2005年 2005 巻 2G12
    発行日: 2005年
    公開日: 2006/06/07
    会議録・要旨集 フリー
  • 丸山 大輝
    長崎県対馬歴史研究センター所報
    2022年 2 巻 27-36
    発行日: 2022年
    公開日: 2023/01/06
    研究報告書・技術報告書 オープンアクセス
  • 日本助産学会誌
    2008年 21 巻 3 号 3_100-3_103
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/07
    ジャーナル フリー
  • 三宅   肇, 脇坂  博之, 渡辺  太郎, 清水  慶昭, 西川  重和
    繊維学会誌
    2006年 62 巻 12 号 267-274
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/02/01
    ジャーナル フリー
    Physical properties of uncrosslinked and crosslinked by ethyleneglycoldiglycidyl (EGDE) or polyethyleneglycoldiglycidyl (PGDE) sericin-chitosan blend membranes were investigated. 1. The surface of chitosan membrane was very smooth even after the treatment with aqueous sodium hydroxide. Those of uncrosslinked and crosslinked blend membranes were relatively flat before washing, but they were extremely uneven after washing with an alkaline solution. 2. With increasing sericin mixing ratio tensile stress increased whereas tensile strain decreased for uncrosslinked blend membrane. For crosslinked blend membrane by EGDE, both of tensile stress and tensile strain decreased. Tensile stress increased but tensile strain decreased for crosslinked blend membrane by PGDE (n=4). Both values for crosslinked blend membrane by PGDE (n=9) were equal or over to those of chitosan membrane. 3. The diffusion coefficient and permeability coefficient for an anionic dye (CI Acid Orange 7) into the blend membrane greatly increased. Those for the blend membrane crosslinked by PGDE of n=4 decreased whereas those values for the crosslinked blend membrane by PGDE of n=9 increased, because of the increase in the porosity by cleaning with an aqueous sodium hydroxide.
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