1891年に帝大教授・久米邦武が発表した論文「神道は祭天の古俗」は、翌年に久米が大学を追われる事件を招き、1893年に修史事業が停止される一因にもなった。事件前後の神道界における諸雑誌の議論を跡づけた宮地正人は、“国家神道”と歴史学の対決として事件を描いたため、以降の研究者によって繰り返し批判されてきた。特に山口輝臣と阪本是丸は、この事件の分析に“国家神道”概念を用いるべきではないと主張し、再考を求めた。
では、久米事件はなぜ起こったのか。多くの研究者によって指摘されてきた様々な要因は、祭天論文以前も存在したか、筆禍事件以後も温存された点で、他ならぬ祭天論文によって発生した事件の主因とは言いがたい。本稿は、特に小野祖教や劉琳琳などの指摘を踏まえつつ、史料用語としての「国家神道」にも着目し、事件の再々考を試みた。
事件以前の神道界では府県社以下神官教導職分離問題が懸案となり、倫理としての「国家神道」への一本化(山崎泰輔)や「完全無比立派な宗教」の構築(磯部武者五郎)という選択肢までもが争われた。しかし両者は、「宗廟」こと伊勢神宮を中心とする祖先祭祀を神道の根幹に据える点で一致していた。久米は分離問題と条約改正への意識に基づいて、谷本富「支那古宗教論」なども参照しながら祭天論文を書き、神道が「宗教」たりえないこと、他方で本来の神観念は唯一神教であったと主張した。この唯一神教説が「大廟」など祖先崇拝の切り捨てを伴ったことが主因となり、筆禍事件が起こる。
事件後の神道界は、久米を共通の敵としながら自己改革を説き、二つの路線を融和させつつ「神道学」の理論化を模索していく。一方、神道に関する宗教学説では「天然崇拝」と「祖先崇拝」が軸となり、谷本や鳥居龍蔵のように、新たな文脈で祭天論文を再評価する者も出た。「国家神道」用例の変化からは、「宗教」、特に「天然崇拝」の位置づけへの模索が窺える。
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