一〇世紀半ばに曾禰好忠によって創始された初期百首以降、歌を百首のまとまりとして詠むということは、詠歌のひとつの「型」であったと考えられる。平安初期から室町時代まで和歌史をたどると、定数歌・続歌・着到和歌とさまざまな詠歌の枠組みが現れるが、その中で百首というまとまりで詠歌することはよく行われている。しかし、「百」という数の用いられ方を見ると、ひとりで百首を一度に詠む例ばかりではなく、時代によって変化していることもわかる。また、百首を練習に用いる例は初期百首以降よく見られるが、その修練のあり方にも時代による変遷がある。定家著か否か真偽が争われている『毎月抄』は、毎月百首を定家の許に送ってきた人への「返報」という枠組みの中で展開された歌論書で、その枠組みと密接に関わりつつ、大量の和歌を詠む稽古修道論が強調されている。和歌史に照らし合わせてみると、毎月「百首」を詠むような修練を前提とした『毎月抄』は、為家以後の和歌世界を存立基盤とすると考えられる。
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