詳細検索結果
以下の条件での結果を表示する: 検索条件を変更
クエリ検索: "冷泉為守"
2件中 1-2の結果を表示しています
  • 小林 ふみ子
    日本文学
    2009年 58 巻 10 号 32-40
    発行日: 2009/10/10
    公開日: 2017/08/01
    ジャーナル フリー
    天明期の大田南畝像二点(『三十六人狂歌撰』『古今狂歌袋』)に共通する膝を抱え俯く姿勢の由来を探る。これらは歌仙絵本「やつし」の形式であるため、当時流布していた歌仙絵本に原拠を求めれば、菱川師宣画『百人一首像讃抄』(延宝六年刊)の藤原定家像である蓋然性が高い。本の形式のみならず像の形態までもが歌仙絵に求められることは、この頃の天明狂歌が古典和歌のやつしとしての性格を強めていたことを示すものであろう。
  • ――『毎月抄』の時代――
    渡邉 裕美子
    日本文学
    2013年 62 巻 7 号 2-15
    発行日: 2013/07/10
    公開日: 2018/07/13
    ジャーナル フリー

    一〇世紀半ばに曾禰好忠によって創始された初期百首以降、歌を百首のまとまりとして詠むということは、詠歌のひとつの「型」であったと考えられる。平安初期から室町時代まで和歌史をたどると、定数歌・続歌・着到和歌とさまざまな詠歌の枠組みが現れるが、その中で百首というまとまりで詠歌することはよく行われている。しかし、「百」という数の用いられ方を見ると、ひとりで百首を一度に詠む例ばかりではなく、時代によって変化していることもわかる。また、百首を練習に用いる例は初期百首以降よく見られるが、その修練のあり方にも時代による変遷がある。定家著か否か真偽が争われている『毎月抄』は、毎月百首を定家の許に送ってきた人への「返報」という枠組みの中で展開された歌論書で、その枠組みと密接に関わりつつ、大量の和歌を詠む稽古修道論が強調されている。和歌史に照らし合わせてみると、毎月「百首」を詠むような修練を前提とした『毎月抄』は、為家以後の和歌世界を存立基盤とすると考えられる。

feedback
Top