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クエリ検索: "南部利淳"
6件中 1-6の結果を表示しています
  • 野中 勝利
    都市計画論文集
    2016年 51 巻 1 号 108-117
    発行日: 2016/04/25
    公開日: 2016/04/25
    ジャーナル オープンアクセス
    本研究では、岩手県による岩手公園開設の契機、整備及び維持管理の経過と、その過程において長岡安平による公園設計やその意図が、どのように受け入れられていたのかを明らかにした。岩手県から招聘された長岡安平は、盛岡で現地踏査と公園の設計を行った。その後、工事の監理も依頼され、公園の開園式まで約五ヶ月余り盛岡に常駐し、専門家としての設計方針をもとに、整備を指導した。このように岩手県は長岡安平の設計を全面的に受け入れ、公園の整備では設計から施工まで長岡安平の意向が強く反映された。長岡安平は自らが主導した岩手公園の出来映えに満足し、自賛していた。岩手県は28年間、公園の維持管理をしたが、大きな施設整備や改造を行わなかった。長岡安平が設計、工事監理して開園した公園を継承する管理だった。
  • 出戸 秀明, 宮本 裕, 岩崎 正二, 堀江 皓
    日本土木史研究発表会論文集
    1987年 7 巻 207-213
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    二重橋は構造本体を横河橋梁が、高欄部の鋳物は久保田鉄工が製作したが、有名なわりには土木技術上の資料が少ない。高欄のデザインは盛岡市出身の当時芸大教授の内藤春治が担当した。それ以前の橋はドイツの設計になっていたが、内藤春治は日本を代表する橋になると考えて、日本的なデザインを工夫したた, その際鋳物の芸術性を尊重して材質も高品質のものを生み出した。彼が芸大の鋳金科に進んだきっかけは南部鉄器の技術を保存するために設立された南部鋳金研究所で技術を学んだことによるところが大きい。盛岡の鉄瓶産業の伝統保存と技術発展のために、
    南部利淳
    (としあつ) 公が、盛岡の鋳金の改良を目的として大正3年 (1914) 6月1日に南部家に開設したのが南部鋳金研究所である。そして、東京から盛岡に帰り、初代所長を務めたのが松橋宗明である。松橋宗明と内藤春治は、盛岡ばかりでなく現代の日本の鋳物にとって忘れることのできない重要な人物達である。このように古来からの伝統である南部鉄器の影響が日本を代表する橋の高欄におよんでいる。
    この機会に我々は、伝統的な技術の上に新しい技術をふまえた、現代にも通用する高欄の技術史 (まだ発展中の) を報告したい。さらに鋳物の町盛岡に少しづつ作られている鋳物の高欄の実態を紹介したい。
  • 堀江 皓
    まてりあ
    1995年 34 巻 10 号 1138-1143
    発行日: 1995/10/20
    公開日: 2011/08/11
    ジャーナル フリー
  • 堀江 皓
    表面技術
    2019年 70 巻 5 号 255-259
    発行日: 2019/05/01
    公開日: 2019/11/01
    ジャーナル フリー
  • 堀江 皓
    日本金属学会会報
    1989年 28 巻 5 号 386-392
    発行日: 1989/05/20
    公開日: 2011/08/10
    ジャーナル フリー
  • 皇室にみる洋風から和風への回帰とその背景
    小沢 朝江, 水沼 淑子
    住宅総合研究財団研究年報
    2003年 29 巻 121-132
    発行日: 2003年
    公開日: 2018/05/01
    ジャーナル オープンアクセス
     本研究は,明治期における明治天皇巡幸,皇太子(大正天皇)巡啓に用いられた巡幸施設の建築とその室礼について検討した。明治天皇の巡幸では和風建築が圧倒的に多く,洋風建築の場合も内部に畳を敷きトコを設けるなど,和風建築の規範を用いて天皇の座所という「格」が表現された。また,天皇が使用する椅子・テーブル等は持参し、置畳・御簾など和風の調度を用いて玉座が設えられた。一方,明治後期の皇太子巡啓では,御座所以外に寝室や謁見所が別室で設けられ,各室に多種多様の調度が設えられるなど,生活空間としての「質」が重視された。また,椅子・テーブル掛・屏風等による皇室特有の室礼の定型が確立し,建築様式に関わらない身分表現が可能になった。
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