近代東アジアの気象観測は、台風の襲来を予測し、警報することを主目的に推進された。その中核はChina Coast Meteorological Serviceと呼ばれるネットワークで、中国沿岸に展開する海関(西欧人の指導による税関)の施設にくわえて、イエズス会の徐家匯(上海)およびマニラ観測所、さらに英国の香港気象台が構成し、当時拡大しつつあった電信網によって支えられていた。その周辺部に位置した日本の気象観測網は、このネットワークに長崎を介して早期から結合し、徐々に関係を深めていったが、日露戦争を契機に大きく拡大することとなった。
長崎における本格的観測は、長崎医学校のオランダ人技師Geertsにはじまる(1871年)。1873年にはデンマークの大北電信会社を通じ、香港・上海・厦門との気象データの交換を開始し、長崎を含めた各地のデータが中国沿岸諸港の英字新聞にChina Coast Meteorological Registerとして掲載された。この交換は長崎測候所(1878年設置)に1881年12月に継承されたが、到来データを電信で長崎から東京に送る便宜が提供されておらず、当初は郵送によっていた。しかし1883年以降は電信で和訳を転送するようになった。
他方やはり大北電信会社は、九州と釜山を結ぶ電信線を敷設し(1884年)、日本側は釜山側の電信局で観測を行わせ、そのデータを得ることとなった。ただしより広い範囲のデータを必要とした日本は、中国海関の指導のもとで朝鮮海関が開設されると、開港地(仁川・釜山・元山)での気象観測の開始を期待し、朝鮮側との交渉を開始した(1889年)。内務省でこの実務にあたった地理局次長の梶山鼎介は、その後在朝鮮弁理公使として交渉を担当したが、海関側での準備がととのわず、実現に至らなかった。朝鮮との交渉は、その後も断続的に続けられたが、気象観測の意義を重視しない朝鮮当局を説得することができなかった。これに対し台風発生域に近いマニラ観測所については、1889年に交渉しデータ交換が実現した。
日清戦争(1894-5年)で台湾を領有した日本は、そこに立地していた中国海関の観測所を受けつぎ、香港・徐家匯の気象台・観測所と相次いでデータ交換を協定し、さらに1899年には台湾とマニラ観測所のデータ交換も合意した。
1897末~8年に台湾と清国中南部沿岸、1899年10~12月に韓国(朝鮮)と清国北部の観測所の調査を行った
和田雄治
(中央気象台技師)は、その業務を評価した。他方1900年に文部省は外務省を通じて清国各地のデータの把握(電信と月報)を試みたが、条件が整わず成功しなかった。このため日露戦争に臨んだ陸軍・海軍・文部省(傘下に中央気象台)は、中国海関の観測点がカバーしていない朝鮮半島、清国中北部(おもに内陸部)各地に在外公館の協力により10箇所以上の臨時観測所網を相次いで設けた。その際、陸軍の電信隊は既存の電信線のない地点からの送信に協力した。
以上のような臨時観測所は日露戦争終結後も増設され、さらに恒久化がはかられた。その中心に指定された仁川の臨時観測所に着任した
和田雄治
は、のちに朝鮮統監府観測所技師、さらに朝鮮総督府観測所長に就任して活躍した。
20世紀初期の日本の気象観測網は、このように西欧側設置の観測施設や電信会社、清国と朝鮮(韓国)の海関との複雑な関係のなかで、戦争を契機に形成されたもので、その観測データのレスキューには、このプロセスへの理解が不可欠である。
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