本稿では, 1990年代に増加した日本人の香港への移動に関する語りをとおして,
国民国家
の境界 (ナショナル・バウンダリー) が人々によって意味を与えられる過程を考察する.人や資本の移動が活発化する現代社会では,
国民国家
への問い直しが進行しているが,
国民国家
に対して異なる境界を設定することや, 構築主義的な視点から国の境界の蓋然性を批判することだけでは,
国民国家
を十全に問い直すことはできない.
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の枠組から距離を取るためには, 人々によって境界が構築される過程に立ち会い, 国や民族の境界とどのような形でかかわり, それを意味あるものとしているのかを考える必要がある.このような問題意識から, 国際移動の経験を対象とし, その一例として香港で働く日本人の語りを分析する.これらの分析をとおして考察された点は以下の2点である.第1に, 日本 (人) および香港の境界は, グローバル化や多文化的状況のなかに位置づけられ, 構築されていること.第2に, 日本 (人) の境界は実際の生活のなかで多義的な意味を与えられており, 当事者は, 日本の境界に対し, これを利用してゆくという側面を読み込むことによって, その多義的な境界に主体的にかかわっていること.
移動に端的に見られるような境界との日常的な交渉過程は, 単に国際移動の現代的なあり方を明らかにするだけではない.移動を可能にする空間のなかで人々が境界を再/脱構築する過程をとおして, 従来の
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の前提を越えることができるのである.
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