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クエリ検索: "土地家屋調査士会"
70件中 1-20の結果を表示しています
  • 池田 英樹
    都市住宅学
    2016年 2016 巻 93 号 97-101
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/04/28
    ジャーナル フリー
  • 大槻 明
    情報知識学会誌
    2019年 28 巻 5 号 356-359
    発行日: 2019/03/31
    公開日: 2019/04/12
    ジャーナル フリー

     地籍情報は土地の戸籍とも言うべきものであり,我々国民の不動産(財産)の権利の客体を具体化できる唯一無二の情報である.登記申請された情報を基に法務局に備え付けられる地図のことを不動産登記法第14条第1項地図(法第14条地図)といい,これは地籍情報の一つに位置づけられる.しかし,平成27年度の時点で,全国の法務局において法第14条地図が整備されているのは約51%にとどまる.例えば,災害が起き,災害復興復興(現場復元など)をする時に,法第14条地図が無い地域では自治体による区画整理が行われてしまう可能性があり,現状の法第14条地図の整備状況は極めて由々しき状況にあるといえる.ゆえに,本稿では,まず地籍情報の重要性について述べ,次に,情報知識学の一つと位置付ける地籍情報学について述べる.具体的には,地籍情報の蓄積,管理及び利活用に関して,技術的及び法的な観点など様々な要因から体系的に議論する形で,地籍情報を国民社会に活用する将来に向けた一考察を行うことの重要性を説く.

  • *飯沼 健悟
    日本地理学会発表要旨集
    2022年 2022a 巻 433
    発行日: 2022年
    公開日: 2022/10/05
    会議録・要旨集 フリー

    はじめに

     令和元年,約50年にわたり停滞していた名鉄名古屋本線の名鉄岐阜駅―岐南駅間の高架化事業について,岐阜県・岐阜市・名古屋鉄道の3者により事業覚書が締結され,令和4年2月岐阜市は国土交通省から都市計画事業としての認可を得た。その計画の概要には,高架化に併せて統合される駅の新設,その周辺における土地区画整理事業があり,それら地域には,江戸期における加納城下町の土地区画の景観を今でも残す地域が含まれている。つまり,明治初期に行われた市街宅地における地租改正事業の様子を確認できる稀少な地域が含まれている。

     土地境界の確認において,市街地となっている地域は,地価が高く,土地境界が抱える問題も複雑な権利関係に起因するものがある。そのため,非常に慎重且つ適正な判断が求められている(飯沼2019)が,大規模事業等により市街地地租改正という希少な事例が失われていく前に,その作業の様子を明らかにしていく必要がある。 本報告では,加納城下町の景観が残り,かつ明治初期の地籍図類が現存する地域について調査をし,市街宅地における土地境界とその周辺問題との関係を考察したい。

    加納城下町の景観を残す地域

     加納城下町の多くは,昭和初期に行われた耕地整理事業,昭和20年岐阜空襲による戦災復興区画整などの区域に取り込まれていること,加えて,岐阜市における地租改正事業の資料が乏しいことから,城下町当時の土地区画の景観が残り,かつ資料が現存する地域は加納南広江町,加納新町,加納柳町,加納安良町及び加納八幡町の約7haのみが確認できた。

    加納城下町の地引絵図

     市街地における丈量手順は明治9年(1876)3月7日公布の「市街地地租改正調査法細目」で確認ができる。 同細目第1章第1節において「丈量にあたっては,1カ町の周囲を測量して面積を求めておき,次に各宅地についての実測し,その合計と1カ町総面積との合致を検討するという仕方」(佐藤1986)とある。 岐阜市役所に保管されている旧厚見郡加納町にある安良町の地引絵図(作成年不明)は,三斜法により丈量が行われているが,距離が寸単位まで測定され,それは丁寧な調査が行われている。(飯沼2019)

    現在の測量技術による調査との比較

     加納城下町において,現在の測量技術で調査した成果を地引絵図と対査することで,当時の測量技術の考察を試みることは可能である。そして,「市街地宅地では100坪に対して2坪,即ち2%を土地丈量の許容誤差として認定」(塚田1986)されているその許容誤差が,そのように調査がされていることを実証することもできる。これにより,現在の登記記録の基礎となっている明治初期の地租改正事業の成果が土地境界問題に与える影響が考察でき,その検証は大変有益であると考える。 また,明治期の地籍図は法務局に備え付けられる旧土地台帳附属地図の基礎となっているため,その作製がどの程度丁寧に行われていたのかを検証することも同様である。

    今後の課題

     加納城下町において、明治期の景観が失われていく恐れがある今,早急に明治期に行われた調査を確認し,その検証結果により,現在の登記記録の基礎となった地租改正事業の成果が,近年の市街地における土地境界が抱える問題にどのように対応できるのか,それら問題にどれくらい影響を与えるかを考察することを今後の課題としたい。

  • *飯沼 健悟
    日本地理学会発表要旨集
    2020年 2020s 巻 832
    発行日: 2020年
    公開日: 2020/03/30
    会議録・要旨集 フリー

    はじめに

    拡幅により創設された道路境界の復原,近世における道路景観の復原には,これらの謎解きが必須であることから,拡幅当時の都市計画,土地台帳及び明治期に作製された地引絵図から公図への連続性を紐解き,本研究において検証してみたい。

    岐阜市街地における都市計画

    明治から大正時代において,市街地が近代都市へと発展するために『市区改正』と称して各地で街区整備が行われている。岐阜市は明治22年(1889)に成立しているが,明治20年(1887)に開業された東海道線から岐阜公園までの道路(現在の国道256号線)を八間道路として拡幅し,それに併せた加納停車場(現在の岐阜駅)の西方への移設が市制前より議論されていた。

    明治35年(1902)に八間道路が実現することとなるが,明治44年(1911)には八間道路に路面電車が開通することで,再拡幅が行われた。

    太平洋戦争中の岐阜市空襲被災による戦災復興土地区画整理では,矢島町二丁目が被災区域境となり,この幹線道路の被災地側の道路は更に拡幅されて区画整理が行われた。これは復興都市計画事業による拡幅とされている。

    区域以北の道路拡幅は,都市計画法による計画道路として昭和50年代に行われ,現在の道路景観となった。

    まとめにかえて

    本地区の登記所備え付け公図は,複数の事業による拡幅が集約されたものであり,特異な記載はそれが原因であることが明らかとなった。

    本研究で,明治期から道路拡幅が行われた区域で,土地境界等の復原を行うためには,明治期作成の地籍図を基に,土地の分割時期,土地台帳規則から不動産登記法へ変遷した手続き方法,そして地籍図の再製,これら特色を考察する有用性が確認できた。

    権利関係が複雑となっている市街地において,これら考察を纏めることは,道路境界だけでなく民有地間の境界を復原する際にも効果的な作業であろう。今後は,地区を拡大し研究を深め,検証していくことを課題としたい。

  • *飯沼 健悟
    日本地理学会発表要旨集
    2019年 2019s 巻 616
    発行日: 2019年
    公開日: 2019/03/30
    会議録・要旨集 フリー
    はじめに
    岐阜県美濃地方において,明治初期に行われた地租改正事業は明治9年に概ね完了がされた。その後,地押調査として明治18年(1885)2月25日『地籍編纂心得書』,同年5月12日『地籍帳及地圖整理手続』の公布による地租改正成果の再調整は,明治21年(1888)に岐阜県下の概ねの地域で完了させている。
    その成果が引き継がれた,旧土地台帳及びその附属地図は,現在は登記所に備え付けられ,土地境界の確認を行うには,それら資料を基として行っている。
    地租改正事業では,江戸期における城下町や士族屋敷地などの無税地である地子免許地についても公正に地租を徴収するために調査が行われ,それは市街地として区分された。
    土地境界の確認において,市街地となっている地域は,地価が高く,土地境界が抱える問題も複雑な権利関係に起因するものがある。そのため,非常に慎重且つ適正な判断が求められている。
    本報告では,市街宅地として地租改正事業が行われた旧厚見郡加納町について研究をし,市街地における土地境界の確認との関係を考察したい。

    市街地における地租改正事業
    明治政府は,東京府下において明治5年(1872)1月「東京府下地券発行地租収納規則」を定め『沽券』と称して証書を発行し,その実施を基に,各地方の地子免許地に対する地租調査への実施が租税寮より達せられた。岐阜県への達しは,明治5年3月であった。
    佐藤甚次郎は『明治期作成の地籍図』で,「市街地の宅地については,郡村地の耕宅地とは異なって地価が高く,寸地も問題になるだけに,特に綿密な測量が要求された。」(佐藤1986)とあり,それらの地域は『市街宅地』として区分され綿密な調査が行われたことを明確にした。
    岐阜県では,旧厚見郡岐阜町,旧厚見郡加納町そして旧安八郡大垣町の3か所がその対象となり,これらの地域の地租改正事業は明治9年に完了され,順次,沽券の発行が行われた。

    市街宅地の丈量
    市街地における丈量手順は明治9年(1876)3月7日公布の「市街地地租改正調査法細目」で確認ができる。
    同細目第1章第1節において「丈量にあたっては,1カ町の周囲を測量して面積を求めておき,次に各宅地についての実測し,その合計と1カ町総面積との合致を検討するという仕方」(佐藤1986)とある。
    一筆地の調査について,建物同士が密接しているような状態で,どのように行われたのか確認できないが,後述する市街地の地引絵図では,丈量は三斜法により行われている。そして,その許容誤差は「市街地宅地では100坪に対して2坪,即ち2%を土地丈量の許容誤差として認定」(塚田1986)であるとされている。

    市街地の地引絵図
    岐阜市役所には,旧厚見郡加納町にある安良町を丈量した絵図が保管されている。作成年が不明であるが,所有者履歴から明治初期に作成されたものと推測ができ,記載の項目は地租改正地引絵図に類似している。
    この地引絵図には,土地の形状,三斜区分による底辺及び高さ,三斜法による坪数及びその総計,そして所有者名が記載されている。それぞれの距離が寸単位まで記載されていることから,丁寧に丈量がされたことが確認できる。
    また,道路部分についてはのこぎり刃のような形状の箇所もあり,道路境界も丁寧に調査されていることも確認ができる。しかし,記載の総坪数と,旧土地台帳との坪数とが一致しない箇所が多く見受けられる。数勺程度の差ではあるが,原因は定かではない。
    また,加納町にある宅地以外の土地の地租改正地引絵図には,岐阜県美濃地方で一般的に用いられている十字法ではなく,間口,裏(間口)と奥行の寸法が記載され,台形の求積に近い方法が用いられている。宅地以外であっても地価が高いことから,丁寧に丈量がされていた様子がうかがえる。
    更に,明治18年に作成された加納町の開墾による野取絵図には,丈量に三斜法を用いられていることからも,その丁寧な様子は確認できる。

    まとめ
    地価が高く,慎重かつ適正さが求められた市街宅地及びその周辺における地租改正事業は,郡村宅地とは異なった作業により行われたことがこの調査で確認できた。
    地租改正当時から変化のない市街地では,丁寧に調査された成果である明治期の地租改正事業による成果は,土地境界の確認において最も重要な資料の一つであることが確認できた。
    旧来の市街地において土地境界問題を解決するには,これら成果を活用することは効果的であり,これらの研究を深め,各地域で検証していくことは,これからの課題である。

    参考文献
    佐藤甚次郎(1986) 『明治期作成の地籍図』 古今書院
    塚田利和(1986) 『地租改正と地籍調査の研究』 お茶の水書房
    岐阜県(1998) 『岐阜県史』 太洋社
    太田成和(1954) 『加納町史』 加納町史編纂所 (大衆書房復刻)
  • *飯沼 健悟
    日本地理学会発表要旨集
    2019年 2019a 巻 423
    発行日: 2019年
    公開日: 2019/09/24
    会議録・要旨集 フリー

    はじめに

    旧岐阜町にある市街地においてそれを形成する土地区画は,岐阜城の城下町としての町並が今も多く残されている。その旧岐阜町において土地境界の検証は,作業に携わる各機関の共通の現代的課題とされている。

    土地境界の復原において,法務局備え付けの旧土地台帳附属地図と岐阜市役所保存の地租改正地引絵図を有用な資料として用いることが考えられるが,この地区において両資料は,作成目的や資料的性格が大きく異なっている。

    また,旧岐阜町において明治24年に発生した濃尾地震とその後の復興が,近代や現在の町並を考える上で重要になってくる。特に,旧岐阜町を縦断する幹線道路である米屋町通りにおける拡幅は,地元からの反対運動があった場所もあるなど,道路拡幅の計画や,拡幅された道路幅員に関して,未だ疑問点も多く残されている。

    本発表では明治期の地籍図や地域資料などを基に,旧岐阜町における道路拡幅の実施状況を検証することで,近代における地震災害とその後の復興が地籍資料にどう記録されていたかを確認する。そして道路境界の復原において,どういった影響が現代社会に残っているのか。近代から現代への連続性を紐解きながら検証してみたい。

    濃尾地震と旧岐阜町の幹線道路の拡幅

    旧岐阜町は岐阜城の城下町として発達し,路線の配置に関する整備が十分に考慮されていた。そのため,近代における土木事業としては,道路の改修を除いて特筆するようなものはなかった。

    明治24年旧本巣郡根尾村付近を震源とする濃尾地震が発生し,旧岐阜町は家屋の倒壊と火災よる焼失で大半が壊滅してしまった。既に土地区画が整備されていた旧岐阜町ではあったが,震災からの復興に際し幹線道路である米屋町通りを拡幅する計画が施工された。その拡幅の計画幅は米屋町南にある白木町までは5間であったが,一人の反対者により米屋町とその北にある靱屋町は4間半として整備が行われた。岐阜市における都市計画は大正13年の内閣府の認可により開始されたことから,復興事業に伴う幹線道路の先駆的な整備事業であったといえる。

    現在の米屋町通りは拡幅当時から位置の変更はなく,景観に歴史的変化はあるものの,「お鮨街道」として市の観光通りとされている。実際に現地を調査してみると,白木町までの通りは概ね5間,米屋町と靱屋町は概ね4間半の道路であった。これは米屋町史にある記述と一致するものであり,道路の拡幅位置が現在まで引き継がれていることが確認できる。

    地引絵図への記載

    旧岐阜町において,岐阜市役所保存の地引絵図は3種類が確認でき,これらから米屋町通りが拡幅された様子を辿ってみる。

    初めの地引絵図は明治21年作製の地籍図である。拡幅された位置に鉛筆で薄く線が引かれてあり,この線は計画位置を示すものと見受けられる。

    次の地引絵図は,同じく明治21年作製の地籍図であるが,拡幅された位置に明確にインク線が引かれ赤色で着色されている。明治8年「地所処分仮規則」第8条において「渾テ官有地ト定ムル地所ハ地引絵図中ヘ分明ニ色分ケスヘキコト」と規定され,道路として赤色で着色された民有地部分は国有地として公示されたといえ,道路拡幅は国有地として実施されている。なお,拡幅部分には地番は付してない。

    最後の地引絵図には,拡幅線のみが描画され,拡幅前の道路境界線は描画されていない。土地利用の変更等により,地引絵図への記載が煩雑となったために再製がされた絵図と考えられるが,道路着色部分の中にある境界は,何らかの事由で転写されず描かれている。

    法務局には,この最後の地引絵図と合致するものだけが備え付けられている。これは旧土地台帳附属地図として一般に公示されているが,現在の道路現状とは概ね一致するがこれのみでは拡幅前の米屋町通りがどのように形成されたのか知ることはできない。

    まとめにかえて

    本検証において,一般に公開される法務局の旧土地台帳附属地図だけではなく,岐阜市役所の内部資料としての地租改正地引絵図を併せて確認することが古来の町並で形成される旧岐阜町における土地境界の検証において重要であることが確認できた。

    特に,米屋町通りの道路境界の復原においては,濃尾地震からの復興により,民有地の一部が国有地として道路拡幅されたという歴史的背景を紐解くことが,重要な作業のひとつであると考える。

    濃尾地震は,近代社会が経験したはじめての大震災として注目されている。しかし,当時の被災経験が都市計画に与えた影響はよく分かっていない部分が多い。災害史や現代の町並を考える上でも従来以上の検証が求められると思われる。濃尾地震は,近代社会が経験したはじめての大震災として注目されている。しかし,当時の被災経験が都市計画に与えた影響はよく分かっていない部分が多い。災害史や現代の町並を考える上でも従来以上の検証が求められると思われる。

  • *飯沼 健悟
    日本地理学会発表要旨集
    2018年 2018a 巻 814
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
    会議録・要旨集 フリー
    はじめに

    岐阜県の美濃地方において確認できる明治期に作製された地籍図には,地租改正地引絵図と更正地図があり,更正地図は不動産登記を公示する法務局で公図として備え付けられている。

    公共の道水路,いわゆる公共長狭物の境界を確認する管理庁,土地境界の調査を業とする土地家屋調査士は,公共長狭物の境界を探索する際に,公図を参考として土地境界の確認を行っているが,公共長狭物については,判例から時効取得が認められず,そのため過去に遡る調査を行うなど,非常に慎重且つ適正な土地境界の確認が求められている。

    本報告は,これまで公共長狭物の境界に関する学術的研究が行われていないことから,公共長狭物が調査された成果である明治期の地籍図について考察を行ったものである。



    岐阜県(美濃地方)の地租改正地引絵図

    岐阜県美濃地方における地租改正地引絵図は,概ね明治9年に完成している。それには地租の対象である民有地の配置,地番,地目,等級,そして十字法による縦横の間数およびその反別が記載されており,これは全国的にも見受けられるものである。

    それらに加え,岐阜県の地租改正地引絵図には,地租の対象外である公共長狭物についても調査がされ,その長さ,幅員及び反別が記載されている。

    岐阜県は地租改正地引絵図の作製にあたり,明治6年(1873)9月『郡村取調方規則』を公布し,第6条において「…堤敷道敷溜池井溝敷之類共有墓地等自今無税ニ定ラレ候條其反別ノミ可申立事…」としている。これにより,地租改正の調査と併せて,地租の対象外である公共長狭物等の調査が行われていたことが確認でき,地租改正地引絵図との対照ができる。これは岐阜県における特色でもある。しかし,その調査方法については,史料等から確認することはできない。



    岐阜県の更正地図

    岐阜県は,地押調査として明治18年(1885)年2月25日『地籍編纂心得書』,同年5月12日『地籍帳及地圖整理手続』を公布し,地租改正成果の再調整を行い,明治21年(1888)に概ねの地域で完了させている。

    併せて,地図更正ノ件(1885)による地籍図の再調整も行っているが,それは,同時期に県内で行う地籍編纂事業による公共長狭物の精密測量による地籍図を基礎として調整を行った。この作成経緯から,この時期に作成された地籍図を更正地図と称して区分するには,今後深く調査をする必要があるが,現在の岐阜県では更正地図として区分されている。

    『地籍編纂心得書』第3条では,「國郡村字界及ヒ道路堤塘河溝等ノ製圖上筋骨トナルヘキモノハ實地精密ニ測量スヘシ」とし,調査方法について指示をしている。地籍編纂心得書による成果は確認することができていないが,作製された地籍図は幾つかの地域で確認でき,併せて調査過程を記された実地野帳が保存されている地域もある。

    その野帳からは,公共長狭物の調査方法は,精密測量として中方儀,小方儀による多角測量を行い,支距法により公共長狭物の境界の屈曲点を測量していることが確認できる。



    地租改正地引絵図と更正地図との比較

    このように,岐阜県では明治初期に公共長狭物の調査が2度行われていることが確認できる。この二つの地籍図に記載された数値を対照してみると,相違する箇所を見つけることができる。1・2か所程度ならば,公共長狭物に何らかの変動があったとも考えられるが,相違する箇所が多数見受けられるため,これは更正地図が丁寧な調査で行われたことにより,より現地の状況を正確に反映させたことによる変動であると考えることが妥当である。つまり,地租改正地引絵図と比較して更正地図の記載は,現地の公共長狭物の状況を正確に表しており,現在,現地測量をした結果とも概ね一致することが確認できる。



    まとめ

    慎重かつ適正さが求められる公共長狭物の土地境界を確認するためには,歴史的段階を経られ,公共長狭物の状況が丁寧に調査された成果である明治期の地籍図は,土地境界の確認において最も重要な資料の一つである。

    現在,法務局では全国にある土地境界の問題の解決を積極的に図っている。土地境界問題を解決する上でもこれらの理解を深めていくことは重要である。
    本研究は岐阜県の数ヵ所の地域において検証したが,今後は地域を広げて研究する必要があり,今後の課題としたい。
  • *西村 和洋
    日本地理学会発表要旨集
    2017年 2017s 巻 918
    発行日: 2017年
    公開日: 2017/05/03
    会議録・要旨集 フリー
    研究の背景 
    土地家屋調査士は、不動産取引の安全の確保、国民の財産を明確にするために不動産の調査及び測量を行う国家資格者である。業務においては土地境界の調査や確認は不可欠な要素である。土地家屋調査士としては、その業務の性質から、最も原始的な土地境界を示していると考えられる近世絵図について、これまでも少なからず関心を持ってきた。しかし土地一筆毎に書き分けられた大縮尺の近世町絵図に関する研究は、城下町絵図や国絵図等に比べると数は少なく、明らかにすべき課題は多いように見受けられる。実際、今日の土地境界は、実は近世初期の地割・屋敷地割をそのまま継承したケースが多いことが各地の調査で判明してきている。そこで今回は元禄八年(1695)に大津代官に提出された大津町絵図群に着目し、特に図に描かれた地割についての特徴について明らかにしたい。

    研究目的
    大津市発行の「図説大津の歴史」において、元禄八年大津町絵図について以下のような解説がある。『この大津町で元禄八年十月、各町いっせいに絵図の提出が指示された。絵図には、町内各戸の間口と奥行、所有者、町内の各施設などが丁寧に記入されており、当時の町の景観や構造がよく分かる。(中略)同絵図は、現在所在が確認されているだけでも、大津百町の内の約80%にのぼっている。いわば300年前の大津町の景観が詳細かつ正確に復元可能で、全国的にも貴重な資料といえる』現在は滋賀県指定文化財でもあるこの絵図群について、その特徴を整理し、同時期に作成された他都市の絵図と比較した。併せて大津において明治期以降に作成された地籍図についても比較検討の対象とした。空間的要素に時間的変化を加え、絵図上に記載された地割について今日との共通性を明らかにする。

    他都市町絵図との比較
    元禄八年大津町絵図については、まずその奥書に図の提出の宛先として代官の氏名のみ記載されているが、元禄二年に町絵図が作成された堺では堺代官に加えて与力、同心に至るまで署名が見られる。また、大津町絵図の裏書には作成の際に「年寄」「屋敷主」が現地立合を行った旨、さらに一部の図には作成者が「大工」であるとの記載まで見られた。また当時、坂本町内に蔵屋敷を所有していた酒井河内守や分部隼人正等の大名家家臣が町人と同じ家持人としての立場での署名が見られるが、他都市では類例がないと思われる。図中の記載情報については、大津町絵図は幅の最小単位が「分」であるが、堺町絵図であれば最小単位は「間」(半間)である。また大津町絵図では各屋敷地割についても表口・奥行に加え裏口の幅の記載があった。さらに四辺の幅の記載がある屋敷地割さえも複数見られた。これらの幅に関する詳細な情報は、今回比較のために行った面積計算にとって非常に有用であった。 

    大津町絵図の地割の特徴
    大津町絵図に描かれた地割について、元禄期の屋敷地割の情報を使用して換算し、明治期作成の地籍図記載の数値との差を比較する。なお、地籍図(地券取調総絵図)記載の数値をそのまま換算したものが現在、法務局にて取得できる地積情報であることは他の大津の町も含め既に確認していることから、現在の登記情報と比較したともいえる。また、今回の計算に当たっては「分」以下の単位は判読が困難であったため、あらかじめ切り捨てた。例として丸屋町(現在は大津中央一丁目)について取り上げたい。同町内の元禄期に既に区画された屋敷地割39筆の内、幅情報が判読可能な33筆について、地籍図(地券取調総絵図)に記載された地積との差を比較した。計算の結果、元禄期の屋敷地を明治期(現在)屋敷地で除したところ、実に8割をこえる28筆の地積が5%以内の誤差内に収まるという結果が確認できた。なお、一筆毎の誤差を平均すると102%、総筆を合算した全体の誤差率は101%でわずかに元禄期の地積が大きいという結果となった。しかし、そもそも明治期の面積の最小単位が「歩」であり、歩以下の数値を除外している点、また今回の結果は現在の国土調査における許容誤差の範囲内の数値でもあり、総じて高い精度を持つといえる。なお、大津町絵図については一間を六尺三寸で測量したと記した資料もあるが、この数値結果から一間は六尺五寸で測量したとみるのが正しいと考える。

    まとめにかえて
    今回、大津町絵図の内、丸屋町の事例を取り上げた。結論として、元禄八年作成の大津町絵図に記された屋敷地割に関しての幅情報は非常に精度の高いものであって、以降変更されることなく明治から現在へと情報が引き継がれていることが確認できた。なお、今後はさらに調査の範囲を拡大し全市的な絵図の精度の確認を行うとともに、複数回の沽券改を経て地籍図・公図へと引き継がれていく過程での測量や製図の詳細について明らかにすることを今後の課題としたい。
  • *飯沼 健悟
    日本地理学会発表要旨集
    2017年 2017a 巻 303
    発行日: 2017年
    公開日: 2017/10/26
    会議録・要旨集 フリー
    はじめに
    明治前期に作られた地籍図には,壬申地券地引絵図,地租改正地引絵図,地籍編製地籍地図,地押調査の修訂図,更正地図がある。これらは明治22年の土地台帳附属地図(公図)の骨格となり,現在は法務局に備え付けられている。全国から膨大な事例を集めた佐藤甚次郎の研究(1986)により,明治前期の地籍図と公図との関係性が整理され,全国的な変遷が示された。
    しかし,古関大樹の研究(2009)において,地籍図作成の実施には,地方で抱える様々な問題により政府の施策指示の単純履行が不能であり,地方の事情に応じた再調整が行われたことが示された。結果として非常に大きな地域偏差が生じており,地籍図に残された複雑な地域偏差は,現在の不動産登記にも多大な影響を与えている。
    平成18年に不動産登記法が100年ぶりに大改正され,土地境界問題の裁判制度の過程における新たな制度(筆界特定制度)が設けられた。これによって明治期の地籍図が証書として位置付けられ,明治期の地籍図と公図との関係性について,地域に即した対応および検証する必要が生じている。岐阜県
    土地家屋調査士会
    では,平成14年より地域の検証を行ってきた。本研究は,その成果をもとに地籍編製事業と公図との関係性を考えてみることにしたい。

    岐阜県の地押調査と土地台帳附属地図(公図)
    岐阜県では,明治18年(1886)2月25日に「地籍編纂心得書」を伝達し(戌第4号達),同事業への着手を計っていた。その時,明治18年(1886)2月28日に政府から地租改正の成果が粗雑な地域の再調査を促すための「地押調査ノ件」が伝達された。内務省が主導した地籍編製事業と大蔵省が主導した地押調査は,他府県では,別々に行われた場合が多い。しかし,岐阜県では時期が重なったことから,両調査は兼ねる形で進められることになった。明治18年5月12日の岐阜県の「地籍帳及地図整理手順」(戌第10号達)では,地籍編製事業を基本としつつも地押調査の方法も加えられ,地籍帳と地図を備置することが指示された。現在,県内で確認できる公図は,これを受けて整備された地図である。

    岐阜県の地籍編製事業
    明治18年2月25日の「地籍編纂心得書」と明治18年5月12日の「地籍帳及地図整理手順」を受けて,県内では地籍帳と地図の整備が進められた。旧美濃国では,明治10年に地籍帳が一度整理されたが,地租改正の成果をそのまま充当したもので,地図は整備されなかった。地籍編製事業では,官有地と民有地の区分が重要視されため,明治10年の地籍帳を破棄し再調製することとし,改めて調査が指示された。併せて,地租改正地引絵図に代わる正確な地籍図の作成を目的として土地境界の再調査が行われた。官有地では,道路,水路,河川および堤敷などの公共長狭物が重要視され,これらの丁寧な調査により地籍編製地籍地図が作成された。
    地籍編製地籍地図が残っている地域で法務局の公図と比較してみると,道路,水路,河川,堤敷などの種類,長さ,幅員,反別などの記載情報が一致する。その数値の一致も見られることから,法務局の公図は明治18年から行われた土地調査の成果が基になっていると評価することができる。
    公図にある民有地については,地押調査の成果が反映されることになった。

    地籍編製事業と筋骨測量
    岐阜県の地籍編纂心得書第4条において「國郡村字界及ヒ道路堤塘河溝等ノ製圖上筋骨トナルヘキモノハ實地精密測量スヘシ」と指示された。国郡村字界,道路,水路,河川,堤敷などを骨格とした測量方法は,県内では「筋骨測量」と呼ばれている。その測量には,中方儀や小方儀が使用され,画用紙に鉛筆で作図するという方法であった。当時使用された中方儀などは,各地に配布され,現在も一部の地域では保管されている。
    筋骨測量は,測量技術伝習所で学んだ生徒により作業が進められた。当時の野取り野帳,測量図を見ると,長狭物の屈曲などの形状が測定されており,境界の形状を正確に調査し,製図されていたことが確認できる。これは,明治期より現況に大きな変化のない地域の公図と現況とを重ねると,概ね一致することでも確認ができる。

    まとめ
    岐阜県の法務局備付けの公図は,地籍編製事業の精密測量の成果を基にしている。地籍編製事業と地押調査とが別々に行われた地域には見られない特徴であるが,このことは全国の地籍図を理解する上でも重要である。
    明治期の地籍図と公図との関係を探る研究は,学術的な重要性だけではなく,現在の地籍制度ならびに不動産登記を適正に理解するためには欠かすことができないものである。本発表では,より前段階で作成された壬申地券地引絵図,地租改正地引絵図の分析は行なえなかったが,これは今後の課題としたい。
  • 明治の地籍図と現在の土地所有に注目して
    *西村 和洋
    日本地理学会発表要旨集
    2016年 2016s 巻 703
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/04/08
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    はじめに
    土地家屋調査士は、土地境界を確定することが重要な業務であり、明治の地籍図をはじめとする古地図や土地台帳、現在の土地専有状況等を調査し、関係性を整理した上で、公法上の筆界を明らかにすることが求められる。官地と民地の境界(官民境界)については、山林や入会地に関する研究が比較的多くみられるが、最も普遍的な存在である道路や水路については非常に乏しい。本発表では、滋賀県大津市の軒下慣行を事例に、官民境界が抱える歴史的性格と基本的構造、現在に残した影響などについて考察したい。 本発表では明治期作成の地籍図を基本資料とするが、その研究は、佐藤(1986)や桑原(1999)などが基本的整理を進め、近年は研究者による基礎的研究も増えてきている。土地家屋調査士の業界においても各都道府県会の研究が近年大きく進んでいる。 大津は豊臣秀吉によって京都の外港として整備され(「大津百町」)、近世以来の土地慣行である「軒下地」が確認できる。先行研究として岡本(2006)があるが、江戸・大阪・京都・堺で普遍的に存在したことが明らかにされており、軒下地の慣行は歴史的な大都市が抱えた構造的問題として注目される。大津百町でも町全体で通りに沿って軒下地が展開し、その様子が明治期の地籍図に詳細に描かれている。  

    研究で用いる資料と分析方法  
    大津百町と呼ばれた地域では、明治7年の壬申地券地引絵図と明治17年の地籍編製地籍地図が町限図形態で作られており、大津市歴史博物館と滋賀県立図書館で各絵図が良好に現存している。これらに描かれた情報は、明治22年以降の旧公図に引き継がれており、現在の土地登記情報もこれを踏襲している。これらの地図史料には、通りに沿って軒下地が詳細に描かれている。明治期の「大津市街軒下地に係る経緯文書」(県庁文書) によると、「軒下地ノ起源ハ…(中略)…天正年間明智光秀ヨリ地子銭ヲ免セラレ以テ地租改正ニ至リ…(後略)」 とある。その子細はよく分からないが、地租改正を進めるにあたって中世末以来の慣行として認識されていた点は極めて重要な意味を持っている。江戸時代にも同じような検証が公的に行われており、その様子は元禄絵図に詳細に描かれている(県立図書館蔵)。 大津では、平成に入ってから地籍調査が行われたが、官民境界が整理された場所においても、軒下地を由来とする境界が現存している。昭和初期には、その帰属が公的に問題視され、いくつかの行政達類も伝達された(県庁文書)。本発表では、元禄絵図・明治の地籍図・現在の土地所有界を比較分析し、官民境界が抱える歴史的問題について具体的に検証したい。  

    軒下地にみる官民境界の歴史性
    軒下地の存在が江戸時代や明治時代だけでなく、大正・昭和期においても大津百町の重要な景観要素として認識されていた点は、現在の土地境界を検証する上でも重要な問題である。今回の調査では、大津百町の軒下地が公的に注目された画期が大きく分けて二つあることを確認する。 一つは、軒下地の私用を実質的に容認することとなった地券発行や改租作業が行われた明治初期があげられる。もう一つは昭和初期で、この段階ではそれまで慣習として認められていた軒下地の私用が許可制となり、利用を認める一方で、私的占有が公的に否定され、一部は民間への払下げも行われた(県庁文書:官有軒下(道路敷)返還・道路占用取消)。 これらを受けて官民査定等の申請書類の提出が行われるようになり、県庁文書には、住民側から提出された大量の書類が残されている。現在、大津町の軒下地の現存状況を確認すると、市道敷が拡幅された場所については、軒下地の存在がなし崩し的に解消されているが、比較的幅の狭い路地や、歩車道の分化のない通行者が限られた道路などでは、現在も軒下地の存在が認められる。江戸時代以来、道路敷として扱われてきた軒下地であるが、場所によっては民間の土地占有が優越した事例も確認できる。 今回、軒下地由来の境界を分析するために地籍図を使用したが、壬申地券地引絵図における官民境界の表現形態が詳細でかつ非常に高い精度を持つことは興味深い。その詳細な測量成果が年月の経過とともに忘れられ、現代の地籍調査には正しく反映されていないことも大きな問題である。  
  • *古関 大樹
    日本地理学会発表要旨集
    2019年 2019a 巻 424
    発行日: 2019年
    公開日: 2019/09/24
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    電子付録

    1.はじめに

     明治の地籍図は,大蔵省と内務省2つの系譜がある。大蔵省の調査は租税改革を目的とし民有地が主対象であったのに対し,内務省の地籍編製事業は官有地を含めた調査を前提とし,地種の整理や接続町村の境界画定を重視した。各府県は内務省に「地籍」を提出し,近代移行期の国土把握の性質を帯びていた点が注目されている(島津2008年)。

     しかし,内務省の地籍編製は,近代移行期の国家的な土地調査であるにも関わらず,全体像がよく分からない事業である。内務省の指示は,明治7年12月に出されたが,実際には大蔵省の地租改正事業が優先され,明治10年の西南戦争の予算不足から多くの府県で中断となった。一部の府県では地租改正の成果を流用し,「地籍」の編纂が行われたが地図作製は本格的に行われなかった。内務省地理局は,明治16年に事業の再開を促し全国的に地図作製が進んだが,明治23年に同局が廃止となり,全国から収集された資料の所在も今のところよく分かっていない。

     確認できた範囲では,①明治8~9年に編纂した「地籍」を改訂して明治22年まで引き継いだ府県(宮城県),②明治16年より前に開始した府県(大阪府・福島県など),③明治16年~22年に実施した府県(滋賀県・岐阜県など),④途中で事業を断念した府県(京都府など)。⑤明治22~23年に実施した府県(奈良県)という地域差がみられる。

    2.兵庫県の地籍編製事業の展開

     兵庫県庁文書は戦災被害を大きく受けており,地籍編製事業に関するものはほとんど伝わっていない。しかし,加古川総合文化センターが県から伝達された「地籍編製心得書」(明治9年12月13日,甲第120号)を所蔵しており,県の方針を確認することができる。これは事業の具体的な手続きを定めたものであるが,各府県に伝達された内務省の「地籍編製地方官心得書」(明治9年5月23日)は,6章15条である。これに対して兵庫県の心得書は,15章80条と大幅に内容が増えている。内訳は,次の通りである(カッコ内が条数)。

     第一章「土地經界釐正」(3),第二章「字并番號」(2),第三章「地名并名請」(2),第四章「地図」(7),第五章「田畑宅地社寺」(2),第六章「畦畔并崖岸」(10),第七章「道路」(7),第八章「堤塘」(7),第九章「溝渠河川」(11),第十章「池澤沼湖」(2),第十一章「山岳原野」(2),第十二章「荒地新墾墳墓地等ノ類」(3),第十三章「沙濱島嶼」(5),第十四章「丈量及其帳製」(3),第十五章「村町地籍編製職員」(11)。

     下線が内務省布達の章と対応するが,兵庫県で増えた項目は調査対象や丈量方法などを詳しく記したものであり,実際の調査を意識して内容の充実化が図られたと考えられる。管見の範囲では,県内の地図の年紀は早いものが明治12年~13年,集中する時期は明治15年であり,全国的にみても非常に早い。明治15年7月24日には,大阪府が「地籍編製心得書附地誌編纂」を管下に伝達したが,条文の構成は兵庫県と同じ15章80条である。大阪府の地図は,兵庫県のものとよく似ており,モデルになった可能性が高いと考えられる。

    3.兵庫県の地籍編製地籍地図の特徴 

     明治9年の兵庫県の「地籍編製心得書」には,一村全図と字限図の雛型が添えられており,県内で確認される地図もこれに従っている。字限図は,外周の屈曲点を朱線で結び丈量値(方位と間数)が記され,一筆内の畦畔も描かれている。字限図を接続した一村全図も村界の丈量値が記されており,この時期の地図としては非常に精巧である。全国の先駆けとなるべく,詳細な土地調査と地図作製が行われたと考えられるが,景観復原の重要な資料として高く評価できると思われる。

    〔付記〕本研究を行うにあたり,兵庫県

    土地家屋調査士会
    に資料調査の協力をいただいた。また,日本
    土地家屋調査士会
    連合会研究所の研究費と科学研究費(平成30年度:奨励研究)の協力を受けた。付して御礼申し上げたい。

    【主な参考文献】

    ・島津俊之(2008),『明治前期地籍編製事業の起源・展開・地域的差異』(平成17~18年度科学研究費補助金基盤研究(C)研究成果報告書)

    ・飯沼健吾(2017),「岐阜県の地籍編製事業と公図との関係」,2017年度日本地理学会秋季学術大会発表要旨集。

    ・古関大樹・福永正光(2018),「奈良県下における地籍編製地籍地図」,日本地理学会2018年度秋季学術大会発表要旨集。

    ・古関大樹・江本敏彦・高橋順治(2019),『近畿地方の旧公図の成り立ちに関する調査研究』,日本

    土地家屋調査士会
    連合会研究所

  • 西本 孔昭
    情報知識学会誌
    2013年 23 巻 2 号 316-321
    発行日: 2013/05/25
    公開日: 2013/07/25
    ジャーナル フリー
     土地家屋調査士は、他人の依頼を受けて、土地や建物がどこにあって、どのような形状か、どのように利用されているかなどを調査、測量して図面作成、不動産の表示に関する登記の申請手続などを行う国家資格者である。また、土地・建物・道路・地域など生活の場や生産拠点において、困りごとや、近隣とのトラブル時の相談相手としても気軽に相談を受けることができるという国民に身近な資格者であるが、土地家屋調査士という名前が分かり辛いなどの理由から、国民の認知度は、それほどは高くないというのが現状である。ゆえに、本稿では、歴史や諸制度を振り返りながら土地家屋調査士の役割や変遷について述べる。さらに、司法制度改革という潮流の中で生まれた、弁護士恊働型
    土地家屋調査士会
    ADR(境界問題相談センター)の概要や展望についても述べる。
  • ―近畿 6 府県を事例として―
    *古関 大樹
    人文地理学会大会 研究発表要旨
    2019年 2019 巻 406
    発行日: 2019年
    公開日: 2020/06/13
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  • *小野 伸秋
    人文地理学会大会 研究発表要旨
    2015年 2015 巻 212
    発行日: 2015年
    公開日: 2020/06/13
    会議録・要旨集 オープンアクセス
  • 還暦を迎えた土地家屋調査士
    志野  忠司
    日本不動産学会誌
    2011年 25 巻 3 号 56-62
    発行日: 2011/12/22
    公開日: 2016/10/19
    ジャーナル フリー
  • (地籍・地図・境界・表示登記の視点から)
    松岡 直武
    日本不動産学会誌
    2011年 25 巻 2 号 104-113
    発行日: 2011/10/25
    公開日: 2016/10/17
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  • 大津市街の壬申地券地引絵図と地籍編製地籍地図に注目して
    *古関 大樹, 西村 和洋
    日本地理学会発表要旨集
    2016年 2016s 巻 702
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/04/08
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    はじめに
    盛んに研究利用される明治の地籍図だが、これは5つの段階(①壬申地券地引絵図、②地租改正地引絵図、③地籍編製地籍地図、④地押調査に伴う地図、⑤更正地図)があり、地域ごとで作られた種類や地図の性格が大きく異なる。近世から近代の過渡期に作製された資料で、①や②は検地に倣って農民が土地調査や地図作製を行った場合が少なくなかった。地域によっては和算家の参画もみられ、明治の地籍図の地域差は、近世末の豊かな絵図文化を示すものとして注目される。並行して西洋の測量技術が導入された一方で、その進捗には大きな開きがあり、明治22年施行の土地台帳制下でも、大きな地域差は解消しなかった。同制度下の旧公図は、現在の登記情報の基礎となっている。そこにみられる地域的差異や地域固有の慣習は、現在の法制度や土地行政でも大きな障害とみなされている。このように明治の地籍図の基礎研究には、その資料的性格を明らかにするだけでなく現代的な役割も求められている。地方別の基礎研究が増えてきているが、地域固有の性格を帯びた資料であるため、残された課題は多い。
    本発表では、大津市街地の明治の地籍図の成立過程と資料的性格を考察する。地租改正は、徳川時代の町場を対象とした(1)市街地券発行地、一般耕宅地を対象とした(2)郡村地券発行地、(3)山林原野及その他雑種地で土地調査や地価の算定方法などが異なっていた。そのため、 同じ府県内でも(1)~(3)で異なる性格の地図が整備された場合もある。県内では、大津町・彦根町・長浜町・八幡町(近江八幡)が市街地券発行地となり、それ以外は郡村地券発行地とされた。なお、大津町の範囲は、豊臣秀吉が整備した大津百町と呼ばれる空間を指し、膳所城下や坂本門前などを含まない。

    明治
    7年の壬申地券地引絵図
    市街地券発行地は、郡村地券発行地に比べて基礎研究が非常に乏しい。第二次世界大戦の戦災被害が少なかった大津市では、戦後も明治の地籍図が市役所で利用され(現在は大津市歴史博物館に移管)、県立図書館にも対になる資料が残されている(県の重要文化財)。
    滋賀県では、明治6年を中心に郡村地券発行地で壬申地券地引絵図が整備された。大津町は少し遅れて開始されたようで、明治6年7月18日の県庁文書に具体的な指示がある(県政史料室、簿冊番号:明41、編次:52)。この布達は、両側町ごとに一町限ノ図と野帳を作り、旧沽券に拘らず現地の反別を一筆限り取り調べるようにとある。佐藤甚次郎によると、東京など市街地券の調査が先行した地域では、実地丈量を伴わず、旧沽券との比較で進んだ場合があったというが、大津では抜本的に実地調査が行われたようである。この布達によると、一町限ノ図の完成後に各区ノ絵図をまとめ、これらを接合して大津町全図を作るようにとある。それぞれ対応する古地図が大津市歴史博物館などで現存している。
    郡村地券発行地の壬申地券地引絵図の縮尺は約1/600だが、大津町の場合は約1/300と極めて大縮尺である。丈量は十字法を基本としながらも、間口と奥行きが計測されており、道幅や川幅もかなり精巧に計測されている。大津町には元禄期の町図も残されているが、奥行きの数値はかなり異なっており、丁寧に丈量が行われたことがうかがえる。県庁文書に数名の和算家の名前がみえ、専門家によって丈量や地図の作製が進められた事が分かる。大津町では、軒下地の帰属が江戸時代から問題になっていたため、道路や溝渠と分けて、これを詳細に描いている。

    明治17年の地籍編製地籍地図と現在の土地登記制度への影響
    滋賀県内の郡村地券発行地では、明治8年末~14年初頭にかけて地租改正地引絵図が作られたが、市街地券発行地では確認できない。壬申地券地引絵図をもとに地租改正が進められたものと考えられる。明治17年には、県下全域で地籍編製事業が進められた。市街地も対象となり、地図が新しく作られたが、全面的な丈量は行われなかった。基本的な情報は明治7年の壬申地券地引絵図から写され、部分的に変更があった所が修正されている。内務省主導の地籍編製事業は、大蔵省主導の地租改正とは異なり、非課税地も対象としたため、道路や水路に新しく地番が与えられた。軒下地は道路(官地)扱いで地番が降られた。
    法務局で明治22年の旧公図を閲覧すると、地籍編製地籍地図に地押調査の成果を反映させた地図が出てくる。これも新規丈量が行われておらず、明治7年の情報が基礎になっている。和算家によって作られた壬申地券地引絵図が何十年にもわたって利用されたことを学術的に証明できることは、全国的にみても非常に珍しい。近世から近代の地図の連続性と変化を理解できる事例であり論点を整理したい。
  • *古関 大樹, 福永 正光
    日本地理学会発表要旨集
    2018年 2018a 巻 813
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    はじめに

     明治期に作成された地籍図には,壬申地券地引絵図・地租改正地引絵図・地籍編製地籍地図・地押調査・更正地図の5つの段階がある。このうち,地籍編製地籍地図は内務省が主導したもので,官有地を含めた土地の調査や接続村の境界画定を主な目的とした。ほかの事業は,租税改革に伴って大蔵省が主導したもので,民有地が主な対象であった。

     このように,地籍編製事業は,ほかの明治の地籍図と異なる背景で作られたが,明治23年に未完成のままに中断しており,その実態や全体像は定かでない。明治期の地籍図の作成は府県に委ねられ,時期や方法が府県ごとで再調整された。そのため,政府の方針や全国各地に残る地図の性格を知るためには,地域ごとの検証の積み重ねが不可欠となる。

     奈良県については,明治20年(1887)11月の奈良県再設置後に独自の方式で地籍編製地籍地図が進められ,明治24年に『奈良県大和国地籍一覧表』が完成したことを島津2008年が指摘している。本発表でも同じ結論を得ているが,同論文では,奈良県が伝達した布達の具体的な内容の考察は行われていない。奈良県の地籍編製地籍地図は,「実測全図」という題が与えられており,主に市町村役場に伝来している。本発表では,奈良県の地籍編製事業の展開と地図の資料的性格を検証したい。



    奈良県の「地籍編纂心得書」と地籍編製地籍地図

     奈良県は明治9年に堺県に,同県は明治14年に大阪府に編入された。明治15年に大阪府下で地籍編製事業の実施が指示されたが,大和国では本格的に実施されなかったようで,明治21年に「地籍編纂心得」(奈良県訓令甲第1号,計14条,県立図書情報館蔵)が伝達された。第2条では,町村の境界は接続町村総代と戸長が立会踏査すべしとある。接続町村の署名押印を添えた境界の確認は,滋賀・京都・大阪・兵庫など,近隣の地籍編製地籍地図でも見られる特徴であり,内務省の方針によるものと考えることができる。

     第6条では,「地租改正及地押調査ノ際実地丈量セシケ所ハ,渾テ其反別ニ拠り,別ニ実測ヲ要セス」とあり,地租改正(同6~14年)や地押調査(同18~21年)の成果が流用されたことがわかる。しかし,その但し書きには「国縣道及一等二等里道ハ実測スベシ」とある。第7条や10条では,道路・堤塘・井溝・河川・官用地・官林などについて新規の土地調査が行うよう指示している一方で,民有地の一筆界や字界,地番や反別などは既存の成果の流用を認めている。官有地の調査に重点を置き,民有地は既存の成果を流用した方針も他府県で認められる。

     第10条と地図の雛型では,一筆までを描いた一村全図の作成を指示しており,縮尺は1/2000とある。11条では,本町村と接続町村の戸長・総代・測量者・製図者の署名捺印,町村境界測量着手・終了の年月,測量に使用した機械名,色分・符号の凡例,高低度の差・旧名山岳の高度を図の端に記入するようにとあるが,実見できる地図にもこれらが具体的に記されている。14条では地籍図と地籍帳を2部県庁に進達し,検査に合格した場合は,1部を下戻して町村か戸長役場に微置するとある。現在,市町村役場に伝来した地籍図には,「奈良県地籍検査済証」という角印が押され,その上に年紀が朱書きされている。これは,検査に合格した際に付されたものと考えることができる。



    地籍編製地籍地図の作成者と作成時期

     明治21年の『年管内事務一件』(県立図書情報館蔵)の「地籍編纂」によると,地籍編纂請負人を募り,79名の出願者の中から技術や資金を審査し,合格者11名に各自1社を組織させ,測量技術を伝習して精巧な機械を備えて事業に従事したとある。実見できる地図にも,会社の名前が見え,トランシットやセオドライトなどの西洋式の測量器具が記されている。町村界は,特に丁寧に測量されたようで外周の測量値が細かく記されている。図の中心と町村界の複数地点を結んだ交会法による補正も行われており,現在の地形図と比べても比較的誤差が少ない。
     このように奈良県では専門家の手によって土地調査と地図作成が進められた。明治23年の奈良県引継目録(奈良県立図書情報館蔵)では,県下の大部分で地籍の検査が終了していたことがうかがえるが,他府県と比べて短期間で精巧な成果が得られたと評価することができる。
  • 地図
    1996年 34 巻 4 号 55
    発行日: 1996年
    公開日: 2011/07/19
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  • ─その現状・課題・展望
    中村 芳彦
    日本不動産学会誌
    2011年 25 巻 3 号 85-91
    発行日: 2011/12/22
    公開日: 2016/10/19
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