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クエリ検索: "地租"
3,185件中 1-20の結果を表示しています
  • 高山 隆三
    村落社会研究
    2000年 7 巻 1 号 1-8
    発行日: 2000年
    公開日: 2013/07/11
    ジャーナル フリー
       The Meiji Land Tax Reform freed land holders from the burden of feudal overlords.
       Instead of the feudal levies in rice, the Meiji Government required land tax to be paid in cash according to the fixed rate of land price. But how did the old levies in kind give way to the new cash tax? To throw light on this point, I take Tokuchoo (levies documents of a village in Suwa district).
       For ten years or twenty years just before The Meiji Land Tax Reform land holders of the village had paid two thirds of the feudal levies in cash and labor services, only one third in rice.
       The transition from rice to cash had already begun before The Meiji Land Tax Reform. One of its causes must be the growth of goods and services markets in the area.
  • 温 娼
    農業史研究
    2002年 36 巻 49-61
    発行日: 2002年
    公開日: 2017/03/24
    ジャーナル オープンアクセス
    The Land Tax Law Revision, which was held in the beginning of the Meiji Era, took almost 10 years and was completed with the close of the Land Tax Revision Office in June 1881. However, the land value modification movement occurred after the completion of the Land Tax Law Revision indicates that its result was not satisfactory for farmers. For the analysis of the Land Tax Law Revision, the essential problem on it cannot be solved without the subsequent land value modification. This report examined the actual conditions of the Land Tax Law Revision in Echizen seven counties, which were not always evident hitherto and also analyzed its origin, features, the difference from other areas, and the relationship with other similar movement. As the result of these analysis, the following three facts were defined. The First Fact: The origin of the land value modification movement in Echizen seven counties has already occurred at the completion of the campaign against the Land Tax Law Revision. The Second Fact: The consecutiveness between the land value modification movement in Echizen seven counties and the campaign against the Land Tax Law Revision is very significant. The Third Fact: Nevertheless the land value modification movement in Echizen seven counties did not lead the economic effect, it still kept its freshness in other similar nationwide movements. It was taken into the Movement for Civic Rights and Freedom in the 1880s and finally achieved to the level of participation with the debate in the Diet around 1890.
  • 水林 彪
    法社会学
    1973年 1973 巻 26 号 87-91
    発行日: 1973/10/10
    公開日: 2009/01/15
    ジャーナル フリー
  • 山田 安彦
    地図
    1983年 21 巻 2 号 1-17
    発行日: 1983/06/30
    公開日: 2011/07/19
    ジャーナル フリー
  • 市川 紀一
    土木史研究
    1998年 18 巻 29-40
    発行日: 1998/05/01
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    A Provision on a governmental subsidy for the civil engineering works after natural disasters was enacted on April 21st, 1899 for the first time in Japan enabling the goverment to subsidize prefectural expenditures required for restoration works, This paper describes the historical process the Naimu-Ministry followed to establish the subsidiary system as well as the state of subsidiary measures at that time before the system was established by use of documentary records and the materials found by author. It was also found through calculation of four trial subsidiary cases that the established system imposes much higher burden on the prefectures compared to the formaly adapted subsidiary rate.
  • 簗瀬 範彦
    土木学会論文集D2(土木史)
    2011年 67 巻 1 号 9-20
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/09/20
    ジャーナル フリー
     本研究は19世紀に作成された地籍図の面積誤差の原因を考証したものである.現在の地籍制度は,明治期の税制革改である
    地租
    改正時の土地台帳とその付属地図を淵源としている.数%からときには10%以上に及ぶ面積誤差の原因は,当事者である農民の拙劣な測量技術,重税を逃れようとする農民の計測の誤魔化し,官側の検査の杜撰さ等によるものと一般に認識されている.しかし,いわゆる「縄伸び」と呼ばれる登記簿面積と実測面積との差は,概ね官側から提示された許容範囲内にあることを地籍図に関する測量基準の分析から明らかにした.併せて,分筆対象の筆全体を実測なしに分筆する制度が長らく行われたことや農地改革に伴う国有地解放なども地籍図における面積誤差の原因の一部であることを指摘しておきたい.
  • 藤田 佳久
    地理学評論
    1968年 41 巻 5 号 297-309
    発行日: 1968/05/01
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
    わが国における林野所有形態の地域差に関連し,大井川上流域旧田代村(現井川村の北部)の明治初期官民有区分時の土地台帳の変化を通じ村持林野成立の要因を把握しようとした.その結果,水田を欠き焼畑が生活基盤であったこの村では旧天領であったことも関連し,農民層分解がみられず自作農民からなっていたこと,それゆえ総有的な奥山林野が村側の名目的個人分割化の対応もふくみながら一括村持山として認定されたことが認められた.このような山間焼畑地域における地域的性格は官民有区分に大きな意味をもったと思われる.
  • 測量誤差の原因と地籍図の精度について
    簗瀬 範彦
    土木史研究論文集
    2006年 25 巻 117-125
    発行日: 2006/06/15
    公開日: 2010/06/04
    ジャーナル フリー
    This paper explicates sources on survey errors which has not been made clear sufficiently so far in a composed process on the cadastral system of Japan. The origin of the present system was the grand survey carried out by Taiko Hideyoshi in the 16th century. The purpose of the survey was to evaluate individual land subject to taxation as well as to identify the landowners' names (most of them were farmers). The registered area of respective arable lands was about 10-20 % smaller than its real area. The extra area was called Nawa-nobi which literally meant a stretch of rope for survey.
    The author studied the actual level of survey technology, situation of taxation and land use in the Edo period. The result proves that Nawa-nobi was rational actions for the land management system at that time.
  • *飯沼 健悟
    日本地理学会発表要旨集
    2019年 2019s 巻 616
    発行日: 2019年
    公開日: 2019/03/30
    会議録・要旨集 フリー
    はじめに
    岐阜県美濃地方において,明治初期に行われた
    地租
    改正事業は明治9年に概ね完了がされた。その後,地押調査として明治18年(1885)2月25日『地籍編纂心得書』,同年5月12日『地籍帳及地圖整理手続』の公布による
    地租
    改正成果の再調整は,明治21年(1888)に岐阜県下の概ねの地域で完了させている。
    その成果が引き継がれた,旧土地台帳及びその附属地図は,現在は登記所に備え付けられ,土地境界の確認を行うには,それら資料を基として行っている。
    地租
    改正事業では,江戸期における城下町や士族屋敷地などの無税地である地子免許地についても公正に
    地租
    を徴収するために調査が行われ,それは市街地として区分された。
    土地境界の確認において,市街地となっている地域は,地価が高く,土地境界が抱える問題も複雑な権利関係に起因するものがある。そのため,非常に慎重且つ適正な判断が求められている。
    本報告では,市街宅地として
    地租
    改正事業が行われた旧厚見郡加納町について研究をし,市街地における土地境界の確認との関係を考察したい。

    市街地における
    地租
    改正事業
    明治政府は,東京府下において明治5年(1872)1月「東京府下地券発行
    地租
    収納規則」を定め『沽券』と称して証書を発行し,その実施を基に,各地方の地子免許地に対する
    地租
    調査への実施が租税寮より達せられた。岐阜県への達しは,明治5年3月であった。
    佐藤甚次郎は『明治期作成の地籍図』で,「市街地の宅地については,郡村地の耕宅地とは異なって地価が高く,寸地も問題になるだけに,特に綿密な測量が要求された。」(佐藤1986)とあり,それらの地域は『市街宅地』として区分され綿密な調査が行われたことを明確にした。
    岐阜県では,旧厚見郡岐阜町,旧厚見郡加納町そして旧安八郡大垣町の3か所がその対象となり,これらの地域の
    地租
    改正事業は明治9年に完了され,順次,沽券の発行が行われた。

    市街宅地の丈量
    市街地における丈量手順は明治9年(1876)3月7日公布の「市街地
    地租
    改正調査法細目」で確認ができる。
    同細目第1章第1節において「丈量にあたっては,1カ町の周囲を測量して面積を求めておき,次に各宅地についての実測し,その合計と1カ町総面積との合致を検討するという仕方」(佐藤1986)とある。
    一筆地の調査について,建物同士が密接しているような状態で,どのように行われたのか確認できないが,後述する市街地の地引絵図では,丈量は三斜法により行われている。そして,その許容誤差は「市街地宅地では100坪に対して2坪,即ち2%を土地丈量の許容誤差として認定」(塚田1986)であるとされている。

    市街地の地引絵図
    岐阜市役所には,旧厚見郡加納町にある安良町を丈量した絵図が保管されている。作成年が不明であるが,所有者履歴から明治初期に作成されたものと推測ができ,記載の項目は
    地租
    改正地引絵図に類似している。
    この地引絵図には,土地の形状,三斜区分による底辺及び高さ,三斜法による坪数及びその総計,そして所有者名が記載されている。それぞれの距離が寸単位まで記載されていることから,丁寧に丈量がされたことが確認できる。
    また,道路部分についてはのこぎり刃のような形状の箇所もあり,道路境界も丁寧に調査されていることも確認ができる。しかし,記載の総坪数と,旧土地台帳との坪数とが一致しない箇所が多く見受けられる。数勺程度の差ではあるが,原因は定かではない。
    また,加納町にある宅地以外の土地の
    地租
    改正地引絵図には,岐阜県美濃地方で一般的に用いられている十字法ではなく,間口,裏(間口)と奥行の寸法が記載され,台形の求積に近い方法が用いられている。宅地以外であっても地価が高いことから,丁寧に丈量がされていた様子がうかがえる。
    更に,明治18年に作成された加納町の開墾による野取絵図には,丈量に三斜法を用いられていることからも,その丁寧な様子は確認できる。

    まとめ
    地価が高く,慎重かつ適正さが求められた市街宅地及びその周辺における
    地租
    改正事業は,郡村宅地とは異なった作業により行われたことがこの調査で確認できた。
    地租
    改正当時から変化のない市街地では,丁寧に調査された成果である明治期の
    地租
    改正事業による成果は,土地境界の確認において最も重要な資料の一つであることが確認できた。
    旧来の市街地において土地境界問題を解決するには,これら成果を活用することは効果的であり,これらの研究を深め,各地域で検証していくことは,これからの課題である。

    参考文献
    佐藤甚次郎(1986) 『明治期作成の地籍図』 古今書院
    塚田利和(1986) 『
    地租
    改正と地籍調査の研究』 お茶の水書房
    岐阜県(1998) 『岐阜県史』 太洋社
    太田成和(1954) 『加納町史』 加納町史編纂所 (大衆書房復刻)
  • 田島 豊穂
    地図
    1995年 33 巻 Supplement 号 9
    発行日: 1995年
    公開日: 2011/07/19
    ジャーナル フリー
  • *古関 大樹
    日本地理学会発表要旨集
    2018年 2018s 巻 821
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/06/27
    会議録・要旨集 フリー
    はじめに

    明治4年(1871年)の廃藩置県とその後の府県統廃合を受けて但馬国・丹後国・丹波国(天田郡・氷上郡・多紀郡)を管轄する豊岡県が誕生した。これは,明治9年8月21日に分割され,但馬国と丹波国氷上郡・多紀郡は兵庫県に編入され、丹後国と丹波国天田郡は京都府に編入された。

     このように,僅かな期間しか存在しなかった豊岡県だが,この地域の地券発行と
    地租
    改正事業は,同県下の方針で進められた。政府からは調査の方針がある程度示されたが,旧来の土地慣習や年貢の方法が大きく異なっており,丈量の際に用いられた竿の長さも地域ごとで異なっていた。また,農民の反発が大きかった地域もあり,府県が独自の方式で調査を進めることがある程度容認された。

     豊岡県の地券発行と
    地租
    改正事業の方法は,のちに編入されることになった旧京都府・旧兵庫県と大きく異なる。現在,法務局や市町村役場に残される明治の地籍図も異なる性格のものが備置されている。豊岡県の時期に行われた地券発行と
    地租
    改正事業を知ることは,学術資料の理解を深めるだけでなく,現在の地域の地籍の成り立ちを知る上でも重要である。



    地券の発行と壬申地券地引絵図

     豊岡県は,明治5年8月に検見内見帳の提出を管下に求め,過去の検地帳や割付帳を現地と照合して情報を修正することにした。地券は,全国的に市街地券と郡村地券の2種類が発行され,異なる方法で調査が行われたが,例えば舞鶴では,市街地券発行地の調査が先行したようで,明治5年10月~6年7月の年紀がある。農村部では,6年6月~8月の年紀を持つものがみられる。

     市街地の地引絵図は,舞鶴平野屋町のものだと明治5年10月1日の年季があり,「地券願節調之,壱間六尺五寸,壱間三分縮」などの記述がみられる。一町限を描いており,間口・奥行・道幅が計測され,各筆に地番・反別・所有者が記されている。竿の数値や地図の描かれ方は町ごとで違っており,必ずしも様式は統一されていなかったようである。郡村地は,「丹後国加佐郡第十五大区第六小区小倉村見取之図」のように,大区小区の表記と「見取之図」という語句が大の中に入っている。一村全図形式で,近世絵図のように彩色が豊かで絵画的表現がみられる。農村部の場合は過去の検地帳との比較を基本としたので,「見取之図」と題されたのであろう。舞鶴以外にも,京丹後市や但馬国側でも同じ様式のものが確認されており,豊岡県全域で広く作られたものと考えられる。田・畑・屋敷は彩色が与えられず,文字だけで地目が記されており,寺院と神社は絵画的に描かれるのが特徴的である。



    地租
    改正事業と豊岡県の分割


     豊岡県の地券発行は全国的にも速やかに進捗し,明治6年末には作業がほぼ終了している。翌7年2月には,
    地租
    改正の手続きや心構えを示した『
    地租
    改正ニ付人民心得書』が伝達された。『人民心得書』の内容は府県で異なるが,豊岡県では,
    地租
    改正着手にあたり,壬申地券地引絵図と反別小前帳を土台にするとある(第2条)。明治9年中頃には,耕宅地の
    地租
    改正がほぼ終わったが,同県の範囲では,この時期の年紀がある地図がほとんど発見されていない。『人民心得書』で示されたように,
    地租
    改正地引絵図が新しく作られることは基本的になかったようである。

     明治9年8月21日に豊岡県が京都府と兵庫県に分割編入された。京都府全域の耕宅地の調査は明治10年5月に一段落し,翌月から山林の調査が済んでいない地域の調査が本格的に実施された。旧豊岡県で山林調査が未済だった所は,旧京都府の方式に従って調査が行われた。兵庫県側でも,同じように旧兵庫県の方式で作られた資料が確認できる。



    土地台帳の編製と法務局の公図

     明治22年の土地台帳制移行に向けて明治18年には地押調査が実施された。地押調査は,
    地租
    改正の成果の修正を目的としたもので,全国的に
    地租
    改正地引絵図は,地押調査を受けて修訂が加えられていることが多い。しかし,原則的に
    地租
    改正地引絵図がつくられなかった旧豊岡県域では,実用に耐える地図は備えていなかった。そのため,この地域では,明治19年~23年頃の年紀をもつ地籍図が京都府・兵庫県それぞれで広く確認される。土地台帳付属地図を引き継いだのが現在の法務局の公図であるが,この中には,明治11年~13年の山林図が含まれていることがある。山林の
    地租
    改正が遅れて実施されたものは,そのまま再利用されることがあったようである。



    〔付記〕公益財団法人民事紛争処理研究基金の研究助成を受けた。



    【主な参考文献】

    京丹後市史編さん委員会編,『京丹後市の古地図』,京丹後市2016年
    古関大樹,「舞鶴の明治の地籍図」,『舞鶴の絵地図』,舞鶴市,2017年
  • *飯沼 健悟
    日本地理学会発表要旨集
    2018年 2018a 巻 814
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
    会議録・要旨集 フリー
    はじめに

    岐阜県の美濃地方において確認できる明治期に作製された地籍図には,
    地租
    改正地引絵図と更正地図があり,更正地図は不動産登記を公示する法務局で公図として備え付けられている。

    公共の道水路,いわゆる公共長狭物の境界を確認する管理庁,土地境界の調査を業とする土地家屋調査士は,公共長狭物の境界を探索する際に,公図を参考として土地境界の確認を行っているが,公共長狭物については,判例から時効取得が認められず,そのため過去に遡る調査を行うなど,非常に慎重且つ適正な土地境界の確認が求められている。

    本報告は,これまで公共長狭物の境界に関する学術的研究が行われていないことから,公共長狭物が調査された成果である明治期の地籍図について考察を行ったものである。



    岐阜県(美濃地方)の
    地租
    改正地引絵図

    岐阜県美濃地方における
    地租
    改正地引絵図は,概ね明治9年に完成している。それには
    地租
    の対象である民有地の配置,地番,地目,等級,そして十字法による縦横の間数およびその反別が記載されており,これは全国的にも見受けられるものである。

    それらに加え,岐阜県の
    地租
    改正地引絵図には,
    地租
    の対象外である公共長狭物についても調査がされ,その長さ,幅員及び反別が記載されている。

    岐阜県は
    地租
    改正地引絵図の作製にあたり,明治6年(1873)9月『郡村取調方規則』を公布し,第6条において「…堤敷道敷溜池井溝敷之類共有墓地等自今無税ニ定ラレ候條其反別ノミ可申立事…」としている。これにより,
    地租
    改正の調査と併せて,
    地租
    の対象外である公共長狭物等の調査が行われていたことが確認でき,
    地租
    改正地引絵図との対照ができる。これは岐阜県における特色でもある。しかし,その調査方法については,史料等から確認することはできない。



    岐阜県の更正地図

    岐阜県は,地押調査として明治18年(1885)年2月25日『地籍編纂心得書』,同年5月12日『地籍帳及地圖整理手続』を公布し,
    地租
    改正成果の再調整を行い,明治21年(1888)に概ねの地域で完了させている。

    併せて,地図更正ノ件(1885)による地籍図の再調整も行っているが,それは,同時期に県内で行う地籍編纂事業による公共長狭物の精密測量による地籍図を基礎として調整を行った。この作成経緯から,この時期に作成された地籍図を更正地図と称して区分するには,今後深く調査をする必要があるが,現在の岐阜県では更正地図として区分されている。

    『地籍編纂心得書』第3条では,「國郡村字界及ヒ道路堤塘河溝等ノ製圖上筋骨トナルヘキモノハ實地精密ニ測量スヘシ」とし,調査方法について指示をしている。地籍編纂心得書による成果は確認することができていないが,作製された地籍図は幾つかの地域で確認でき,併せて調査過程を記された実地野帳が保存されている地域もある。

    その野帳からは,公共長狭物の調査方法は,精密測量として中方儀,小方儀による多角測量を行い,支距法により公共長狭物の境界の屈曲点を測量していることが確認できる。



    地租
    改正地引絵図と更正地図との比較

    このように,岐阜県では明治初期に公共長狭物の調査が2度行われていることが確認できる。この二つの地籍図に記載された数値を対照してみると,相違する箇所を見つけることができる。1・2か所程度ならば,公共長狭物に何らかの変動があったとも考えられるが,相違する箇所が多数見受けられるため,これは更正地図が丁寧な調査で行われたことにより,より現地の状況を正確に反映させたことによる変動であると考えることが妥当である。つまり,
    地租
    改正地引絵図と比較して更正地図の記載は,現地の公共長狭物の状況を正確に表しており,現在,現地測量をした結果とも概ね一致することが確認できる。



    まとめ

    慎重かつ適正さが求められる公共長狭物の土地境界を確認するためには,歴史的段階を経られ,公共長狭物の状況が丁寧に調査された成果である明治期の地籍図は,土地境界の確認において最も重要な資料の一つである。

    現在,法務局では全国にある土地境界の問題の解決を積極的に図っている。土地境界問題を解決する上でもこれらの理解を深めていくことは重要である。
    本研究は岐阜県の数ヵ所の地域において検証したが,今後は地域を広げて研究する必要があり,今後の課題としたい。
  • *古関 大樹
    日本地理学会発表要旨集
    2017年 2017a 巻 302
    発行日: 2017年
    公開日: 2017/10/26
    会議録・要旨集 フリー
    はじめに
    大阪市役所建設局測量明示課には,「民有地図」と呼ばれる地図資料群が残されており,大阪法務局にも複本が断片的に保管されている。その存在は,一部の研究者に知られており,松口・吉田(1996),岡本(2006)などが街区を詳細に分析するために利用した。これらの研究では,『第一次大阪都市計画事業誌』(1944)の記事をもとに,明治9年(1876)の市街
    地租
    改正の丈量の成果を基にしていること,縮尺は1/300で6尺竿が利用されたこと,3部製作されたことなどの基本的性格が示された。各町の「民有地図」には年紀がないが,図の題では明治4年~11年の大区小区制の表記がみられ,
    地租
    改正地引絵図が伝来したものと評価できる。
    地租
    改正事業では,市街地・郡村地・山林原野及び其他雑種地で異なる方法で調査が進められた。市街地の
    地租
    改正地引絵図は,戦災や災害などで失われてしまった場合が多く,基礎研究はほとんど進んでいない。大阪市役所の民有地図は,全国でも貴重な地籍図群といえるが,本発表では,地籍図としての役割に着目して基本的性格を整理してみたい。

    大阪市街の
    地租
    改正

    明治9年6月12日に大阪府が伝達した「市街地
    地租
    改正ノ準備調査」の前文では,縮尺約1/300の町別地図と,1/600の小区総絵図の提出が指示された(『大阪府布令集』p403)。同布達の第1条では,「丈量ハ該町ノ四方間数ヲ綿密ニ調査シテ総坪数ヲ算定シ,然ル後一宅地事ニ丈量ヲナシ」とあり,廻り検地の方法によって町の外周を図ってから一筆地の丈量が行われていたことが分かる。丈量の間数は一厘未満が切り捨て,面積の積算は1勺(1/100)未満が切り捨てとされた。第3条では,一戸ごとに地主が立ち会い境界に目標を立てること,第4条では,間竿端数に至るまで詳細な情報を野帳に記録し,今後の調査のために小区ごとに備え置くことが指示された。
    大阪市街の
    地租
    改正では,道路中心杭が埋め込まれ,ここを起点に道路幅が計測された。民有地図にも道路中心杭と道路幅が記されており,丁寧な調査が行われたことがうかがえる。明治10年8月29日に「市街地位等級調査心得書」が伝達され(同p547),土地等級の設定方法が示された。12年12月1日には市街地地価の確定が報告されており(同p851),市街
    地租
    改正の完了がうかがえる。

    民有地図の資料的性格
    各町の民有地図は,共通した表紙が添えられており,明治22年の大阪市制成立後の北区・東区・南区・西区に分けて整理されている。道路や水路などに彩色が与えられ,各筆には地番と反別が記され,一筆地の形状に合わせて間口と奥行が記されている。一筆地の中に三斜線が入ったものもある。見通すことができない宅地の中を三斜で区切っていることから,間口や道路幅などの丈量に加えて図上計算も併用していたことがうかがえる。付箋が貼られたり,追記された土地も多いが,明治18年の地押調査をはじめ後年の変更も反映されている。
    大阪市は,明治30年に市域が拡張されたが,拡張した範囲の地図も含まれている。編入地域は村の地図が基になっており,市街地の地図とは基本的な性格が異なっている。各図には,土木局道路部管理課明示係の署名がある。現在の部局に伝来した系譜的関係がうかがえるが,全国的には税務課に引き継がれている場合が多い。 大阪市街では,江戸時代から家屋の突出によって道路敷が占有された場合が少なくなく,明治30年代末から本来の道路幅への回復が図られた(岡本2006)。土木局道路部は,この頃に編成された部局である。明治9年に
    地租
    改正が行われた際にも,道路敷の占有状況は府庁内で問題視されていたが,当時は回復を果たすことができず,道路中心杭と中心線の設定に留まった。しかし,後年に
    地租
    改正地引絵図を基にして道路敷の回復が試みられたようである。その場面で活用されたことから,一括して
    地租
    改正地引絵図が現存することになったのだと考えられる。

    主な参考文献
    岡本訓明(2006),「近代大阪における「軒切り」の展開について」,歴史地理学48-2,pp.19-40.
    大阪府史編集室編(1971),『大阪府布令集』,大阪府.
    大阪市(1944),『第一次大阪都市計画事業誌』,大阪市.
    吉田高子・ 松口輝久(1996),「大坂船場南部地区の町割と街区構成について」,日本建築学会計画系論文報告集486, pp. 177-186.
  • 神戸開港場における内外人住民の自治活動と近代都市環境の形成に関する研究 その2
    小代 薫
    日本建築学会計画系論文集
    2014年 79 巻 700 号 1469-1476
    発行日: 2014/06/30
    公開日: 2014/07/15
    ジャーナル フリー
    This paper described a leading action in the modern city in Japan. Foreigner's land speculation in Kobe open port led to the urban development business that expected of price of land rise by Japanese private companies and Japanese local residents in Kobe. And, the foreigner's autonomy led to the establishment of the local assembly in Hyogo Prefecture. It was Takahira KANDA to have initiated these. Kanda is known as a person who begins the land tax reform and the local assembly in Japan. It can be said that KANDA received these concrete idea from the foreigners' activities in Kobe open port.
  • *飯沼 健悟
    日本地理学会発表要旨集
    2022年 2022a 巻 433
    発行日: 2022年
    公開日: 2022/10/05
    会議録・要旨集 フリー

    はじめに

     令和元年,約50年にわたり停滞していた名鉄名古屋本線の名鉄岐阜駅―岐南駅間の高架化事業について,岐阜県・岐阜市・名古屋鉄道の3者により事業覚書が締結され,令和4年2月岐阜市は国土交通省から都市計画事業としての認可を得た。その計画の概要には,高架化に併せて統合される駅の新設,その周辺における土地区画整理事業があり,それら地域には,江戸期における加納城下町の土地区画の景観を今でも残す地域が含まれている。つまり,明治初期に行われた市街宅地における

    地租
    改正事業の様子を確認できる稀少な地域が含まれている。

     土地境界の確認において,市街地となっている地域は,地価が高く,土地境界が抱える問題も複雑な権利関係に起因するものがある。そのため,非常に慎重且つ適正な判断が求められている(飯沼2019)が,大規模事業等により市街地

    地租
    改正という希少な事例が失われていく前に,その作業の様子を明らかにしていく必要がある。 本報告では,加納城下町の景観が残り,かつ明治初期の地籍図類が現存する地域について調査をし,市街宅地における土地境界とその周辺問題との関係を考察したい。

    加納城下町の景観を残す地域

     加納城下町の多くは,昭和初期に行われた耕地整理事業,昭和20年岐阜空襲による戦災復興区画整などの区域に取り込まれていること,加えて,岐阜市における

    地租
    改正事業の資料が乏しいことから,城下町当時の土地区画の景観が残り,かつ資料が現存する地域は加納南広江町,加納新町,加納柳町,加納安良町及び加納八幡町の約7haのみが確認できた。

    加納城下町の地引絵図

     市街地における丈量手順は明治9年(1876)3月7日公布の「市街地

    地租
    改正調査法細目」で確認ができる。 同細目第1章第1節において「丈量にあたっては,1カ町の周囲を測量して面積を求めておき,次に各宅地についての実測し,その合計と1カ町総面積との合致を検討するという仕方」(佐藤1986)とある。 岐阜市役所に保管されている旧厚見郡加納町にある安良町の地引絵図(作成年不明)は,三斜法により丈量が行われているが,距離が寸単位まで測定され,それは丁寧な調査が行われている。(飯沼2019)

    現在の測量技術による調査との比較

     加納城下町において,現在の測量技術で調査した成果を地引絵図と対査することで,当時の測量技術の考察を試みることは可能である。そして,「市街地宅地では100坪に対して2坪,即ち2%を土地丈量の許容誤差として認定」(塚田1986)されているその許容誤差が,そのように調査がされていることを実証することもできる。これにより,現在の登記記録の基礎となっている明治初期の

    地租
    改正事業の成果が土地境界問題に与える影響が考察でき,その検証は大変有益であると考える。 また,明治期の地籍図は法務局に備え付けられる旧土地台帳附属地図の基礎となっているため,その作製がどの程度丁寧に行われていたのかを検証することも同様である。

    今後の課題

     加納城下町において、明治期の景観が失われていく恐れがある今,早急に明治期に行われた調査を確認し,その検証結果により,現在の登記記録の基礎となった

    地租
    改正事業の成果が,近年の市街地における土地境界が抱える問題にどのように対応できるのか,それら問題にどれくらい影響を与えるかを考察することを今後の課題としたい。

  • 『明治三十二年 土地.帳 印旛郡八街村八街』を資料として
    廣橋 碧, 三島 伸雄
    都市計画論文集
    2017年 52 巻 1 号 1-9
    発行日: 2017/04/25
    公開日: 2017/04/25
    ジャーナル オープンアクセス
    本研究の目的は、千葉県印旛郡に位置し明治8年から昭和15年の間に開墾会社永沢社によって開発された八街開墾地の特質を地目と等級の観点から明らかにすることである。永沢社は、佐賀藩士によって明治維新後に武士の地位を失った人々に対する窮民授産のために設立された。本研究では、近年発見されたために今日まで学術的研究に用いられたことのない『明治三十二年 土地?帳 印旛郡八街村八街』(土地台帳)を資料として用いる。土地台帳より、当時の各敷地の状況を復元させた地図を作成し、明治政府によって定められた地目と等級と比較した。結果として、街道筋宿駅の短冊状の伝統的地割りを踏襲して開発されたこと、明治半ばの鉄道開発が土地の等級付けにも影響したと考えられることなどが明らかになった。
  • ―近畿 6 府県を事例として―
    *古関 大樹
    人文地理学会大会 研究発表要旨
    2019年 2019 巻 406
    発行日: 2019年
    公開日: 2020/06/13
    会議録・要旨集 オープンアクセス
  • ―成立過程と現存状況の地域的特色に注目して―
    *古関 大樹
    人文地理学会大会 研究発表要旨
    2015年 2015 巻 210
    発行日: 2015年
    公開日: 2020/06/13
    会議録・要旨集 オープンアクセス
  • *川口 洋
    人文地理学会大会 研究発表要旨
    2023年 2023 巻 102
    発行日: 2023年
    公開日: 2024/01/24
    会議録・要旨集 オープンアクセス
  • 京都府南部の事例を中心に
    *古関 大樹
    日本地理学会発表要旨集
    2023年 2023s 巻 414
    発行日: 2023年
    公開日: 2023/04/06
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    1.はじめに

     明治初年の地籍図(壬申地券地引絵図と

    地租
    改正地引絵図)は,近世の村図の作成技術で作られた。近世の村図は,様式が揃わない場合が多いが,明治初年の地籍図は大きな地域差を含むものの,府県ごとの雛型が管下に伝達されたので,作成技術や方法が比較できる。桑原(1987)や佐藤(1986)などでは,布達類や土地調査の方法を定めたマニュアルである心得書に注目し研究が進められた。近年は,地籍図の公開も進んでいるので,京都府南部を主な事例に地図の作成過程を考えたい。  

    2.壬申地券地引絵図:一村全図

     近世の大山崎庄村は,明治4年11月に京都府に編入された。しかし,大阪府への編入を希望する村民もおり,明治6年10月に分割され,山崎村が大阪府に編入した(現:島本町)。大山崎町歴史資料館には,大山崎荘村の壬申地券地引絵図が残されている。年紀はないが,分割前の範囲が描かれており,明治5年9月~6年10月作成と評価できる。

     この図は,一般的な字限図とは異なり,道や畔など字の境界で切り分けられている。各図がうまく整合し,約1/600の縮尺の一村全図形態となる。同村は広く,全て合わせると数メートルの大きさになるので切り分けたと思われるが,パズルのように整合するので大型の一村全図の作成過程が分かりやすい。下図を裏張りした袋が残されており,道路と水路だけが描かれている。交点や屈曲点に針穴があり,道幅も丁寧に描き分けいている。伊能図で知られる技法だが,道路と水路の丈量によって地図全体の骨格を定めており,現在の地図とも高い精度で合う。

     また,下図には方眼状の線が引かれており,完成図には,これと整合するヘラで押した跡がある。明治8年8月から実施された京都府の

    地租
    改正事業では,明治15年刊の『府県
    地租
    改正紀要』に「盤目界紙ヲ以テ求積スルノ法」で丈量したとあり,面積の計測にも用いられたことがうかがえる。道路水路を丈量した下図を作り,針穴と方眼を用いて一筆線の加筆と面積の求積を行い,提出図を作成したことが分かる事例である。

    3.

    地租
    改正地引絵図:字限図

     竹林(1989)の研究では綴喜郡の

    地租
    改正日誌簿が分析された。これによると,明治8年10月1日より丈量人(1郡3名雇入)が村々を巡回して実地丈量方法を伝習し,間竿・水縄・曲尺・コンパス・三角定規・碁盤目界紙などが調達された。同月5日頃から練習を兼ねて道路の丈量が行われ,11日から田畑の丈量が行われた。丈量を終えた地所は,一筆ごとに畝杭を立て,字名・地番・反別・持主などを記した「丈量野帳」が作られた。11月 7 日には,郡総代から「丈量野帳并耕地絵図差出方之達」が廻達され,官吏による丈量検査の準備が始められたという。

     竹林の研究では地図の検証が行われていないが,

    地租
    改正地引絵図を収集すると,道路水路に測量地点を記した事例が散見され,各筆に検査に合格した印が押されている。田中(1993)では,字ごとに建てられた2本の杭の現存例が紹介された。これは,戸長役場の建物を解体した時に柱材に再利用されたものが発見された貴重な事例である。柱の4面を使い,(1)字番号・字名・一筆の数・字の合計反別・村名,(2)内訳として田地・畑地・宅地の反別,(3)内訳として藪地・溜池・荒地・養水井戸など雑種地の反別・(4)「明治九年六月十三日 丈量検査済」の情報が記されている。官吏の検査では,畝杭と字ごとの情報をまとめた杭を立て,合格したら「丈量検査済」の文字の上に焼き印を押したことが分かる事例である。京都府では,字限図だけが残り,一村全図を確認することが少ない。一村全図形態の壬申地券地引絵図が既に存在したことから,新規に作成する必要がなかったと考えられる。

    〔付記〕本発表の調査にあたり,大山崎町歴史資料館,京都府立山城郷土記念館の職員の皆様にお世話になりました。伏して御礼申し上げます。

    【参考文献】

    ・桑原公徳 1987.『

    地租
    改正ニ付人民心得書』にみる改租事業の府県差,鷹陵史学 13 85-115.・

    佐藤甚次郎 1986. 『明治期作成の地籍図』,古今書院.

    ・竹林忠男 1989.京都府における

    地租
    改正ならびに地籍編纂事業(上),資料館紀要17,京都府立総合資料館: 43-132.

    ・田中淳一郎 1993.木津町鹿背山区郷蔵から見つかった資料,山城郷土資料館報11号: 67-74.

    ・福島克彦編著 2022.『古絵図の魅力 : 地図で旅する大山崎 : 第三〇回企画展』,大山崎町歴史資料館.

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