古墳時代中期の最も特徴的な遺産は,大阪平野の南部に築かれた巨大な前方後円墳である。倭王権の象徴として確立した前方後円墳は,この時期に規模が頂点に達し,前方後円墳を中心とした政治秩序が列島各地で新たな展開を示している。ここでは,古墳時代を出現期・前期・中期・後期・終末期の5期に区分する立場から中期の諸要素に注目し,東国の地域首長墓に投影された中期倭王権の実像の一端を明らかにしたい。
中期の諸要素は,韓半島を通じて受容した新しい技術によるところが多いが,それが定着し普及するには一定の時間を要している。また,すでに前期後葉から存在し中期に発達した要素もある。中期を大きく2段階に分けるならば,前期後葉から受け継いだものと進取の要素で構成される前半と,前期的な要素が払拭され,新たな技術革新が首長墓に集約される後半段階に分けることができる。
ここで取り上げる木更津市高柳銚子塚古墳は,中期前半から後半へ移り変わる時期を代表する東国の前方後円墳のひとつである。古墳時代全般にわたって畿内とのつながりが濃厚な東京湾東岸地域に立地し,波及する倭王権の変化をかなり直接的に受容した地域の首長墓として注目される。現存する墳丘は後円部の一部を残して大きく削平されているが,盾形周溝をもつ140m級の前方後円墳に復原可能である。埋葬施設も破壊され石棺の底石が残るのみであるが,その形式から中期の王陵に用いられた長持ち形石棺の系統をたどることができる。また,墳丘に樹立されていた埴輪が採集されており,2次ヨコハケ調整と突出度の高いタガなどの中期円筒埴輪の特徴を備えている。
一方,木更津「長州塚」出土品と伝えられてきた6点の石製模造品があり,直弧文の陰刻をもつ刀子をはじめ,精巧な造りの製品であることで知られる。これらがこの古墳にともなう可能性が高いことは既に先学によって指摘されているが,改めてその位置づけを検討し,墳形・石棺・埴輪の分析に加えたい。
これらの限られた要素で中期前半の首長墓を検討するため,下総・常陸・毛野・下野・武蔵・遠江の類例を比較している。
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