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クエリ検索: "大内義隆"
104件中 1-20の結果を表示しています
  • ザビエルから大内義隆への贈物
    河本 信雄
    技術と文明
    2023年 24 巻 e 号 1-14
    発行日: 2023/06/27
    公開日: 2023/07/10
    ジャーナル フリー
  • 杉本 圭三郎
    日本文学
    1978年 27 巻 7 号 80-84
    発行日: 1978/07/10
    公開日: 2017/08/01
    ジャーナル フリー
  • 丸山 雍成
    交通史研究
    2010年 71 巻 57-58
    発行日: 2010/04/08
    公開日: 2017/10/01
    ジャーナル フリー
  • 野村 晋域
    社会経済史学
    1938年 8 巻 2 号 216-232
    発行日: 1938/05/15
    公開日: 2017/12/28
    ジャーナル オープンアクセス
  • 渡壁 奈央, 河野 知歩, 石橋 ちなみ, 岡田 玄也, 杉山 寿美
    会誌食文化研究
    2022年 18 巻 27-38
    発行日: 2022/12/25
    公開日: 2023/07/25
    ジャーナル フリー

    本研究は、『元就公山口御下向之節饗応次第』に記された饗応献立の再現の過程と、再現した饗応献立の活用事例を報告するものである。『元就公山口御下向之節饗応次第』には、1549年に毛利元就が

    大内義隆
    を訪問した際の6回分の饗応献立が、用いた食器具とともに記されている。

    6回の饗応献立の料理は類似しており、料理の提供順序に規則性が認められた。料理の再現は、毛利氏の家臣、玉木吉保が記した『身自鏡』や、同時期の史料の調理法に従った。調味料は、醤油、砂糖は用いず、味噌、塩、酢、酒、蜂蜜、水飴を用いた。獺(かわうそ)、白鳥等の入手が不可能な食材は、類似した食材で代用した。

    再現した饗応献立は“サムライゴゼン~毛利食~”として商品化され、また、COVID-19感染症拡大により中止となったが、学校給食での提供が予定されていた。今後、観光面、教育面での活用が期待される。

  • 中世文学
    1986年 31 巻 104-105
    発行日: 1986年
    公開日: 2018/02/09
    ジャーナル フリー
  • 米原 正義
    中世文学
    1984年 29 巻 1-10
    発行日: 1984年
    公開日: 2018/02/09
    ジャーナル フリー
  • 渡壁 奈央, 古田 歩, 鈴木 麻希, 杉山 寿美
    日本家政学会誌
    2023年 74 巻 11 号 648-659
    発行日: 2023年
    公開日: 2023/12/08
    ジャーナル フリー

     戦国期毛利氏の饗応献立について, 『元就公山口御下向之節饗応次第』に記された6回の饗応献立記録と, 『身自鏡』に記された季節の食材や調理法から, 饗応献立の料理構成を検討した.

     膳部の本膳, 二の膳, 三の膳の料理の数は, それぞれ7, 5, 3であり, 異なる15の料理が供されていた. また, 1回の饗応で料理の重複は認められなかった.

     一方, “かうの物” “かまぼこ” “あわび”等は, 6回の饗応すべてで供されていた. 御汁は, 二の膳, 三の膳で2つずつ供され, 二の膳では, 魚 (鯉, 鯛, 鮒) の汁と, 山菜または海藻の汁, 三の膳では鳥 (白鳥, 靏, 鴈) の汁と, 獺またはあわびの汁であった. 『身自鏡』には, 塩による保存の有無で魚, 鳥, 獺の汁の調理方法が異なることが記されていた.

     献部では, 初献で“雑煮”, 二献で“さしみ”“鳥”“栄螺”が供されていた. 点心の献には, 上位の食材とされる鯉, 白鳥, 鶴や, 季節の情景を表した料理が, “御副物”として組み合わされていた.

  • *渡部 真子, 鈴木 彩日, 松村 知歩, 水 梨恵, 石橋 ちなみ, 岡田 玄也, 杉山 寿美
    日本調理科学会大会研究発表要旨集
    2019年 31 巻 2B-3
    発行日: 2019年
    公開日: 2019/08/26
    会議録・要旨集 フリー

    【目的】戦国期毛利氏の食に関しては,1549年に毛利元就が元春,隆景を伴い

    大内義隆
    を訪問した際に毛利氏が用意した6回の饗応献立が「元就公山口御下向の節饗応次第(以下,饗応次第)」に記されている。また,毛利氏の家臣,玉木吉保が当時の食材や調理法を「身自鏡」に記している。我々はこれまでに「饗応次第」において,雁や雉に加え,白鳥や鶴,獺が供されていたこと,「身自鏡」において調理法のみでなく,青黄赤白黒の視点が記されていること等を報告している。本研究では,「饗応次第」の献立再現を通して,当時の食について考察した。

    【方法】「饗応次第」の献立再現では,料理のレシピ(食材量,調理法,盛り付け,器等)の決定が必須である。そこで「饗応次第」「身自鏡」をさらに読み解くとともに,吉川元春館跡発掘調査(記録,出土遺物),同時期の料理書である「大草家料理書」,「明応九年三月五日将軍様御成雑掌注文」からの再現事例等を確認し,「饗応次第」に記された6回の饗応食のうち折敷や器が記された三月五日の饗宴献立の再現を試みた。

    【結果および考察】「饗応次第」には十二文あしうち,三度入り,小中等と記され,上記発掘調査において側板0.5cm程度の足付折敷,6〜8cmの土師器皿が多く出土されていることから,食材量は器の大きさに併せて決定した。また,当時の饗宴は食さないとの解釈もあるが,白鳥や鶴等の渡り鳥や,鷹のものと思われる獺等,極めて貴重な多様多種の食材が30〜35人分が用意されていることから食されたと解釈した。再現した献立にはぞうに等の儀礼的な料理がある一方,料理の組み合わせや順序への配慮がうかがえた。今後,当時の人々の食への価値観等も含め,検討したい。

  • —『元就公山口御下向之節饗応次第』に記された器を適応して—
    *渡壁 奈央, 藤井 歌穂, 北尾 美樹, 宇田川 心優, 古田 歩, 鈴木 麻希, 杉山 寿美
    日本調理科学会大会研究発表要旨集
    2023年 34 巻 1C-1
    発行日: 2023年
    公開日: 2023/09/09
    会議録・要旨集 フリー

    【目的】我々は戦国期毛利氏と大内氏の饗応献立が記された『元就公山口御下向之節饗応次第』(1549年:以下『饗応次第』)に基づいて料理再現を行い,その献立構成を報告してきた。本研究は,戦国期毛利氏に関わる他の複数の饗応の料理を再現・比較検討し,その特徴を明らかとすることを目的とした。

    【方法】対象史料は,『饗応次第』と同様に,地方の武士の間で相互に行われた饗応『益田藤兼・同元祥安藝吉田一献手組注文』(1568年:毛利氏と益田氏),地方の武士が国の権力者をもてなした一方向の饗応『明応九年三月五日将軍御成雑掌注文』(1500年:大内氏から足利氏へ,以下『将軍御成』),および『輝元様聚楽御亭江秀吉公御成記』(1590年:毛利氏から豊臣氏へ,以下『秀吉公御成』)とした。これらの饗応献立の再現には『饗応次第』に記された器や膳を適応させた。

    【結果】饗応の膳部では,いずれも本膳には飯と菜7つ,二の膳以降には汁2つと菜5つ(あるいは3つ),汁1つと菜2つが配置されていた。『将軍御成』の三の膳では,左の汁の位置に“御わけの供御”が“御ゆ土器重”とともに供されていた。この配膳の形は『山内料理書』には記されていたが,他の饗応では認められなかった。献部では,いずれの饗応でも初献では“ざうに”が供され,二献以降は点心と御副物からなる献,菜3つからなる献から構成されていた。『将軍御成』の献数は25献と多く,点心として麦,まんぢう,5種の羹が供されていた。『将軍御成』,『秀吉公御成』のその他の献で供された菜は,『饗応次第』の菜と類似していた。以上より,戦国期毛利氏に関わる饗応にはその性質により,いくつかの違いがあるものの,規則性が維持されていたことが明らかとなった。

  • 黒嶋 敏
    史学雑誌
    2007年 116 巻 3 号 328-361
    発行日: 2007/03/20
    公開日: 2017/12/01
    ジャーナル フリー
    The Kyushu Tandai was a post set up by the Muromachi Bakufu to govern the island of Kyushu. From the end of fourteenth century, the post was held by successive members of the Shibukawa family branch of the Ashikaga clan. The research to date has held that the power of the Tandai quickly declined after the defeat of Shibukawa Yoshitoshi at the hands of the Shoni family in 1425 and eventually became limited to the eastern portion of Hizen Province. This is why the Kyushu Tandai has not been seen as a significant political force in the region during the late medieval period. The present article reexamines the process of the Shibukawa family's decline and fall in order to relocate the place of the Kyushu Tandai within the historical context of late medieval Japan. The above-mentioned decline of the Shibukawa family, which supposedly began with the defeat of 1425, was in fact the result of policies implemented under the Muromachi Shogun Ashikaga Yoshinori, which aimed at a new way of governing Kyushu centered around the Ouchi family, and in the process reduced the authority of the Kyushu Tandai. Nevertheless, the Tandai still retained a high level of military leadership in the region. Then, during the sixteenth century, when civil strife shook northern Kyushu as the result of the weakening of shogunal power in the region, the Shibukawa family split into Ouchi and Otomo family factions. Even then, the Tandai remained influential and was considered an important element within the strategy of any feudal lord (daimyo) in the region. The author concludes that the Shibukawa Kyushu Tandai family did not decline and fall, but rather lost importance as a regional Bakufu administrative organ due to a change in shogunate politics. On the other hand, the Shibukawa family's high level of political influence remained an important, unwavering element within the regional political order throughout the period. The same phenomenon can be observed in the case of the Muromachi Bafuku's Oshu (Northern Honshu) Tandai. Placing the post of Tandai within its rightful place in regional politics alongside the Bakufu and daimyo now reveals a brand new aspect of the political structure characterizing fifteenth and sixteenth century Japan.
  • 早坂 功
    デザイン学研究
    1990年 1990 巻 78 号 29-36
    発行日: 1990/03/31
    公開日: 2017/07/25
    ジャーナル フリー
    本論は和時計の成立と発達に関わる各種史料に基づいて,時計と人間の関係を文化史的な視点から考察した。特にヨーロッパ製の機械時計が日本に伝来した経緯,時計師と呼ばれる時計職人の誕生とその製作の実態,和時計と密接な関係にあるからくりの内容と歴史などがその主要なテーマである。史料から得られた主な内容は次の通りである。(1)和時計の成立には,16世紀半ばのフランシスコ・ザビエルの来日と,その後のキリスト教布教活動に伴う戦国大名たちとの交流が大きな役割を果たした。(2)徳川時代初期に登場した時計師たちは,後に諸大名に召し抱えられ「お抱え時計師」として,安定した身分と報酬の下で和時計の発達に寄与した。(3)からくりに関する技術と人材も和時計の発達に欠かせない存在であった。特に細川頼直著「機巧図彙」は,その接点を明らかにしたことで大きな意義がある。上記のように,和時計の成立と発達には多くの人間が関わり,それぞれの立場で固有の文化史的役割を担った。
  • 金子 金治郎
    中世文学
    1956年 2 巻 12
    発行日: 1956年
    公開日: 2018/02/09
    ジャーナル フリー
  • 木下 聡
    史学雑誌
    2006年 115 巻 9 号 1571-1592
    発行日: 2006/09/20
    公開日: 2017/12/01
    ジャーナル フリー
  • 石田 晴男
    史学雑誌
    1993年 102 巻 5 号 746-750
    発行日: 1993/05/20
    公開日: 2017/11/29
    ジャーナル フリー
  • 早坂 功
    デザイン学研究
    1969年 1969 巻 10 号 12-13
    発行日: 1969/10/20
    公開日: 2017/07/25
    ジャーナル フリー
  • 岡本 真
    史学雑誌
    2015年 124 巻 4 号 38-62
    発行日: 2015年
    公開日: 2017/05/16
    ジャーナル フリー
     本稿は、従来大内氏の独占時代とされてきた寧波の乱後の遣明船派遣の実像を明らかにするため、史料上に「堺渡唐船」と記される遣明船について、関係諸勢力の立場、搭乗者と派遣目的、歴史的位置づけの三点を究明した。その結果明らかになった事柄は以下の通りである。
     まず、関係諸勢力については、『天文日記』やその他の古文書等に見られる遣明船が、いずれも「堺渡唐船」を指すことを確認したうえで、同船の派遣を中心となって推進したのは、細川晴元と堺商人だった点を論証した。また、本願寺や土佐一条氏は協力者に過ぎず、
    大内義隆
    や畠山稙長は同船の派遣を阻止しようとしていた点を指摘した。
     次に、搭乗者と派遣目的については、その解明に先立ち、新史料である『活套』所収外交文書二通を紹介し、同書の収録内容や文書末尾の年月日をもとに、これらが「堺渡唐船」関連文書であることを明証した。そして、これを根拠に、従来の遣明船と同様に朝貢使節としての形態を整えたうえでの派遣が図られており、正使は忠叔昌恕という禅僧で、ほかに医師半井明英も乗り組むことになっていたことを指摘した。また、派遣目的は、寧波の乱の際に明側に留められていた前回使節の朝貢品の献上、同使節の遺留品の返却、収監されていた宋素卿の送還、新勘合および新金印の下賜、半井明英の明医学伝習の許可などを要請することだった点を解明した。
     それから、歴史的位置づけについては、寧波の乱後に足利義晴・細川高国が明側とおこなった交渉の延長上に「堺渡唐船」があることを明らかにし、従来の研究では存在が確認されていなかった嘉靖准勘合に関する考察をもとに、状況の推移を論じた。また、
    大内義隆
    の経営した天文八年度船と同船を比較すると、寧波の乱の際の遺留品の返却や新勘合の獲得などが、両者に共通する派遣目的だった点を指摘した。
     そして、以上を踏まえて、これまで大内氏の独占時代とされてきた寧波の乱後においても、それ以前と同様、遣明船をめぐる同氏と細川氏の抗争が継続していた点を明らかにした。
  • 山口 華代
    長崎県対馬歴史研究センター所報
    2024年 4 巻 64-91
    発行日: 2024/04/15
    公開日: 2024/04/16
    研究報告書・技術報告書 フリー
  • 大倉 耕治
    日本時計学会誌
    1981年 99 巻 41-47
    発行日: 1981/12/20
    公開日: 2017/11/09
    ジャーナル フリー
  • 湯浅 佳子
    日本文学
    2001年 50 巻 8 号 62-63
    発行日: 2001/08/10
    公開日: 2017/08/01
    ジャーナル フリー
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