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クエリ検索: "子供之友"
21件中 1-20の結果を表示しています
  • 絵ばなし「甲子・上太郎」の統計解析
    *遠藤 敏喜, 村上 民, 藏原 惟史
    一般社団法人日本家政学会研究発表要旨集
    2018年 70 巻 3Q-03
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/07/28
    会議録・要旨集 フリー
    目的 婦人之友社が1914年から1943年まで刊行した児童向け絵雑誌『
    子供之友
    』は,子どもの成長と自立をうながす近代的生活教育雑誌であった.絵ばなし「甲子・上太郎」は,創刊から終刊までほぼ毎号連載され,上・中・下太郎と甲・乙・丙子の6人の男女の子供たちが登場し,日常の一場面でどう行動するかが描かれている.読者に,あなたは上太郎にも下太郎にもなれるが,誰のようになりたいかと自ら選んで行動するよう導く工夫がある.『
    子供之友
    』は,竹久夢二や北沢楽天などの著名な画家が挿絵を担当していたこともあり,絵本として注目されがちであるが,「甲子・上太郎」に見られる教育手法と扱われているテーマは,全体を通して顕著な教育的特色がある.本研究では,その生活教育の在り方の変遷を探る.

    方法 とくに大正期のものが史料として希少価値が高い『
    子供之友
    』であるが,刊行総数356号のうち,現物218号分,複写77号分を今回,自由学園に収集した.それらの内容をデータ化し,統計解析を行った.手法としては主に数量化Ⅲ類を使用した.

    結果 テーマの傾向が外発的から自発的に移っていること,他の記事が時代とともに変化していくなどがある中で,「甲子・上太郎」には時代によらない一貫した主張が見て取れ,創刊者羽仁もと子の教育思想が感じられた.
  • 水谷 真紀
    日本文学
    2010年 59 巻 1 号 31-41
    発行日: 2010/01/10
    公開日: 2017/08/01
    ジャーナル フリー
    「童画」という言葉が初めて公の場にでたのは、一九二五年「武井武雄童画展」である。この頃、日本近代における「子ども」という文脈では、言語テクストに従属する「挿絵」とは異なり、それ自体で芸術的に自立する「童画」がめざされた。本稿ではまず「童画」が多く掲載された絵雑誌の特徴を確認した。さらに『
    子供之友
    』の代表的な画家である村山知義に注目して、関東大震災を表象した「挿絵」(「赤い鳥」)と「童画」(村山知義)の分析を行った。最後に「童画」と言語テクストの関係性が更新されたことを確認したうえで、今後の展望を提示した。
  • 小田 幸子, 神 明久
    生活大学研究
    2018年 4 巻 1 号 108-111
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/04/05
    ジャーナル フリー
    2017年度の自由学園最高学部(大学部)の4年課程卒業研究は、19本の論文が提出された(うち3本は共著)。また、2年課程卒業勉強についても論文形式のまとめが提出された。これらの成果は、2018 年3 月3日に開催された2017年度4年課程卒業研究・2年課程卒業勉強報告会にて発表された。本稿では、卒業研究及び卒業勉強の論文タイトルと報告会の様子を紹介する。あわせて、同年3 月9 日に開催された「生活経営研究実習」(1・2 年必修科目)の報告会についても紹介する。
  • 永渕 朋枝
    日本近代文学
    2013年 89 巻 154-163
    発行日: 2013/11/15
    公開日: 2017/06/01
    ジャーナル フリー
  • 「美術」と「工芸」の重層的展開をめぐって
    村上 民
    生活大学研究
    2016年 2 巻 1 号 9-25
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/04/21
    ジャーナル フリー
    1921(大正10)年、自由学園創立者の羽仁もと子・吉一は、美術科主任として山本鼎を招聘した。羽仁夫妻と山本との協働をもって始められた自由学園の美術教育は、芸術を特権的なものとせず、誰もが美に対する感覚を養い、自他の生活に活かすことを目指した。多くの芸術家たちの参画によって進められたこの美術教育は、絵画・工芸・鑑賞を構成要素とする芸術教育として展開した。1932年、自由学園卒業生は、学園美術を社会的に発展させ、「工芸」を産業化し社会運動にまで推進するべく、「自由学園工芸研究所」を発足させた。これを機に、自由学園の美術教育は学校内の美術教育にとどまらない、「美術教育運動」としての方向性を明確にし、「工芸」に大きく舵を切り始める。これは、羽仁もと子・吉一と山本鼎が共有していた、芸術、教育、社会改造を深く結び付けようとする志向の延長上に位置する。またこうした方向性は、近代日本の「工芸」をめぐる動きとも重なるものであった。自由学園の工芸推進路線はしかし、単線的に進んだわけではない。1930年代のこうした方向性に対して、「学園美術の危機」とみる批判が美術教師達からあがったことは重要である。彼らは学園美術が一つの方向に収斂しつつあることの問題性を指摘し、美術教育の再構築を図った。こうした緊張感を背景に、自由学園の美術教育運動は「工芸」を時代の課題として選びとり、歩みを進めていった。また、1930年代後半以降の自由学園工芸研究所の海外展開は、日本が国際的孤立を深め、日中戦争、太平洋戦争へと突入していく時期の取り組みだった。この時期の工芸研究所の海外展開と国内展開との関係、また戦時下自由学園における美術教育の取り組みや、新たに参画した若手芸術家たちの招聘事情についても検討を試みる。1930年代から40年代にかけての自由学園の「美術」と「工芸」の展開をたどることを通して、この時代における自由学園の美術教育運動の重層性に迫る。
  • 柴村 紀代
    國學院大學北海道短期大学部紀要
    2015年 32 巻 33-46
    発行日: 2015/03/19
    公開日: 2018/07/19
    研究報告書・技術報告書 フリー
  • 羽仁もと子・吉一と山本鼎の協働を中心に
    村上 民
    生活大学研究
    2015年 1 巻 1 号 26-44
    発行日: 2015年
    公開日: 2016/08/15
    ジャーナル フリー
    自由学園創立者である羽仁もと子、吉一は、創立初年の1921年から、当時自由画提唱者として、 また農民美術運動の推進者と注目されていた洋画家、山本鼎を美術科主任として招聘した。山本鼎 は、病に倒れる直前の1942年秋頃までの20年間、つまり彼の後半生を通じて自由学園の美術教育 に携わり、また羽仁夫妻の教育事業に深く関与した。本稿は、自由学園草創期から10年間の学園美 術の展開、そして自由学園工芸研究所設立にいたる過程を、羽仁もと子・吉一と山本鼎の協働の側 面から論じる。羽仁夫妻は、自由を基調とした教育をめざし、教育と社会改造を深く結び付けよう とする志向を持っていたが、山本の自由学園での教育実践は、それまでの山本の自由画運動や農民 美術運動を統合させた形で学園美術を方向づけ、自由学園教育が持っていた社会への拡張性を具体 的に推し進めた。山本鼎はまた、自由学園卒業生による自由学園工芸研究所の設立(1932年)にも 関わった。工芸研究所の設立は、生徒たちの、山本鼎からの自立過程でもあった。
  • 井上 理恵
    昭和文学研究
    2000年 40 巻 147-150
    発行日: 2000年
    公開日: 2023/05/15
    ジャーナル フリー
  • 浅野 俊和
    幼児教育史研究
    2016年 11 巻 75-78
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/03/29
    ジャーナル フリー
  • 自由学園・全国友の会・婦人之友一体となって
    遠藤 邦子
    生活大学研究
    2021年 6 巻 1 号 129-142
    発行日: 2021年
    公開日: 2021/04/21
    ジャーナル フリー
    本稿は、自由学園が「婦人之友」「全国友の会」と一体となって行った社会活動のうち、農村への運動について述べる。この運動は、自由学園南沢キャンパスの地元・当時は純農村であった東京府下久留米村での「自由学園農村セットルメント」に始まり、昭和恐慌以降、「全国友の会」が中心となって『婦人之友』と共催した「東北農村生活合理化運動」「東北セットルメント」に展開し、戦後の「農村文化運動」へと継続した。自由学園・全国友の会・婦人之友社の3団体は、同じ創立者羽仁もと子・吉一夫妻のもとに新しい社会建設の理想を共有し、教育機関、社会活動団体、出版社とそれぞれの特質を活かして、共にこの運動に携わった。特に農村への運動と災害救援の分野では一体となって活動した歴史がある。学園では戦前期には主として女子部卒業生、戦中から戦後は主として女子部最高学年の生徒・学生が携わり、まさに「学校から社会へ」働きかける、大きな経験となった。ここでは、当時用いた「セットルメント」の表記を用いる。なお、本稿は2021年刊行予定の自由学園100年史(書籍版)第III部第3章の詳細版としての位置づけを持っている。
  • 弥吉 光長
    図書館学会年報
    1975年 21 巻 1 号 21-27
    発行日: 1975年
    公開日: 2022/10/07
    ジャーナル フリー
     In 1911 Zensaku Takeuchi (1885-1950) was adopted as an assistant of Tokyo City Public Libraries, where he was on duty of Yotsuya Branch and other three branches.
     He removed of his post from Tokyo City Public Libraries to the vice director of Ohashi Library, where he resigned in 1944. His work is “Manual of Public Libraries and School Libraries” (1949).
     As various problems resolved or reformed in the daily works, he discussed with materials of his experiences, which were concluded on the basis of the pragmatic lines of thoughts, and the context of his argments were not be able to find out any contradictions. I will introduce one of his treatises “Application of serial services”, in which he discussed services of small libraries with serials as the main materials. He told his experiences in the Branches of Tokyo City Public Libraries, where he served with serials selected and got readers gratified. He adviced small libraries to serve with serials as main materials by reason of their new and fresh informations, attractive characters and judgement of patrons reading inclinations.
     He, with ability of appreciation of serials, recommended five magazines for children on the “Journal of City Libraries and Their Works”, in the Library Week, 1926. Among them there was “Akai-Tori” or Red Birds edited by Miyekichi Suzuki, an eminent fable writer and novelist. He was gratified by Takeuchi's recommendation, and wrote a long letter to report the improvement of the magazine on behalf of his advice. Takeuchi was not only appreciated by librarians but also journalists and men of letters.
  • 村上 民
    生活大学研究
    2021年 6 巻 1 号 76-90
    発行日: 2021年
    公開日: 2021/04/21
    ジャーナル フリー
    本稿を含む二つの論考によって、戦時下における自由学園の教育を二つの観点から検討する。(1)学則変更や各種認定申請といった制度整備が各種学校たる自由学園にとって存続問題に関わる課題であったことを明らかにし、(2)戦時下の「生活即教育」の諸相を学徒勤労動員も含めて概観する。こうした制度と教育実践の両面から、戦時下における自由学園の全体像の把握を試みる。ここで取り扱う「戦時」とは、1937 年7 月7日の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が全面化していく時期から1945 年8 月15 日の終戦前後までの時期とする。羽仁もと子、吉一夫妻の教育事業は、1921年創立の自由学園(高等女学校相当と高等科)から始 まり、1930年代にかけて、初等教育、男子中等教育へと広がっていた。1937年時点で、自由学園(女子教育)、同小学校(1927年設立)、同男子部(1935年設立)の計3つの学校が設立されていた。女子部および男子部は高等女学校令・中学校令に拠らない各種学校の7年制中等教育で、専検指定(上級学校への接続、兵役上の特権等)を受けていなかった。自由学園は当時の学校教育制度の周縁部に位置し、教育行政の規制を受けにくく自由度が高かった一方、制度的には脆弱な立場にあった。戦時体制下の教育政策は統制を強め、自由学園は学校存続の危機に複数回直面した。青年学校男子義務化(1939年)に伴う男子部存続問題や、中等教育令(1943年)による各種学校整理(廃止)方針に伴う自由学園存続問題、校名変更要求がそれであり、その都度自由学園は学則変更等を試みつつ、教育の独立性や校名「自由」についてはあくまで堅持する姿勢を貫いた。
  • 深谷 昌志
    教育学研究
    1985年 52 巻 3 号 261-270
    発行日: 1985/09/30
    公開日: 2009/01/13
    ジャーナル フリー
  • ―1960年代の『ひかりのくに』別冊付録を手がかりとして―
    井岡 瑞日
    子ども社会研究
    2021年 27 巻 185-205
    発行日: 2021/06/30
    公開日: 2023/02/27
    ジャーナル オープンアクセス
  • 神野 由起
    デザイン学研究
    1995年 42 巻 1 号 93-102
    発行日: 1995/05/31
    公開日: 2017/07/25
    ジャーナル フリー
    欧米と同様,近代日本においても消費経済が発達し,その市場が拡大されていく過程において,デザインの多様化,差別化が起こっていった。この中で子供というテーマもまた,消費の対象として,その存在を「発見」されることになる。明治末期から大正期にかけて,子供のための商品が市場にあふれていったが,そこには企業の経営戦略が色濃く反映されており,例えば百貨店の勃興期にあたる明治末期においては三越呉服店が,また銀座が繁華街として発展した大正後期には資生堂が,それぞれ子供用商品の販売に取り組んでいた。この2つの企業での子供を対象にした活動を考察した結果,双方において,児童研究,自由画教育運動など子供への関心の高まりに着目し,積極的に児童文化活動を展開させて,店のイメージ作りに利用していた事実が認められた。これにより,ひとつのデザインの差別化が行われるには,様々な社会の意識が関与していることが明らかにされるとともに,消費文化の発展過程を,考察対象時期において再確認することができた。
  • 村上 民
    生活大学研究
    2020年 5 巻 1 号 36-60
    発行日: 2020年
    公開日: 2020/06/13
    ジャーナル フリー
    松岡もと子(1873–1957)と羽仁吉一(1880–1955)は、それぞれの青年期にキリスト教と出会っていた。もと子は1897年頃、吉一は1900年に報知新聞に入社した。1901年に二人は結婚、退社し、1903年に内外出版協会からの家庭雑誌発行を請け負う形で雑誌『家庭之友』を刊行する。羽仁夫妻は「新しい」家庭建設の問題意識を直接に反映させた雑誌づくりを企図した。『家庭之友』には当時の羽仁夫妻の交友関係が色濃く反映しており、ユニテリアン、婦人矯風会の「母の会」などの先進的な取り組みや知見が多く取り入れられている。 羽仁夫妻は『家庭之友』編集の仕事のほかに、自分たちで『家庭女学講義』を刊行準備していたが、その最中の1906 年3月、夫妻は二女凉子を急性肺炎のために失う。夫妻は愛児の死に直面して信仰を深め、自らの人生における事業の目的を「天国を得るため」と言明するにいたる。彼らの信仰の深まりはその内面生活にとどまらず、この世界に生を受けた者が「何の為めに働く乎」を問い直し、「天国を得んとして」独立して生きる「行動」へと、夫妻をうながした。羽仁夫妻は内外出版協会やその他の仕事から退き、独立して、自宅を発行所として雑誌『婦人之友』を創刊する(1908年)。信仰と事業の拠点を自らの家庭に据えての再出発であった。 『婦人之友』編集および営業上の「大刷新」(1911年)を経て、羽仁夫妻の雑誌は徐々に発行部数を増やし、1913年に羽仁夫妻は社屋・自宅を雑司ヶ谷上り屋敷に新築する。ここを拠点に、婦人之友社は出版事業にとどまらない宗教的・文化的活動を展開した。そのひとつに、富士見町教会牧師の植村正久指導による「礼拝」があった。羽仁夫妻は出版を中心とする自らの事業について、「全事業が凡て基督の御名の尊崇められんがため」と捉え、植村正久はこの「礼拝」が将来的にキリスト教会へと発展することを願っていたという。 1919年頃、羽仁夫妻は植村に「自由学園設立の念願」を打ち明け、植村は驚きつつも二人の教育事業は彼らの伝道であると受けとめ、これを支援した。
  • -大正期から昭和初期にかけての童画に着目して-
    神谷 睦代
    美術教育学:美術科教育学会誌
    2023年 44 巻 137-153
    発行日: 2023年
    公開日: 2024/04/01
    ジャーナル フリー
    本稿の目的は,倉橋惣三が幼年絵雑誌『コドモノクニ』『キンダーブック』等に求めた芸術性について明らかにすることである。研究方法として,倉橋の関連文献の分析・絵雑誌の装丁や童画等の芸術性・倉橋の児童芸術論及び鑑賞教育論との関連という三つの視点から考察を行った。その結果,倉橋は大正モダニズムの影響をうけた童画の造形美や雑誌の大きさ・紙質・色彩等の美的調和に対する従来の評価とは異なる視点で,その芸術性を特に岡本帰一の童画に見出し「幼年絵心」として捉えていたことが確認された。また,倉橋がこれら絵雑誌に託した真の幼児教育的ねらいは「鑑賞の教育」によって「人間性の完成」を目指し,子ども一人ひとりの心の向上を図ることに結びつくと考えられる。さらに,その先には,人類全体の向上として文化の進化・拡大を見据えていたことが示唆された。
  • 羽仁もと子・説子の幼児と母への働きかけ
    菅原然子
    生活大学研究
    2015年 1 巻 1 号 54-70
    発行日: 2015年
    公開日: 2016/08/15
    ジャーナル フリー
    本論文は幼児生活団の設立経緯を明らかにすることを主な目的とする。羽仁もと子とその長女説 子が中心となって1939年1月に立ち上げた幼児生活団は、1938年6月に行った幼児生活展の開催が 土台となっている。幼児生活展では、準備段階において幼児の暮らしに関する様々なトピック(た とえば衣・食・住・健康など)について大規模調査を実施し、その結果から、幼児の発達によりよ い暮らしとはどのようなものかを提案した。幼児生活団は幼児生活展の内容を実際に試行するため の、実験的施設として設立された。幼児生活団は当時一般的であった幼児教育施設である幼稚園と は異なり、幼稚園令(戦後は学校教育法)によらず、また、有資格者である保母を指導者としては おかず、カリキュラムも意図的に特定のものは組まずに始められた。それは、もと子と説子が、幼 児生活団を幼稚園としてではなく、幼児生活展での提案を実践してみたいと思う母親が集まればど こででも、誰にでもつくることができる、いわば育児組合であることを提唱していたからである。 その思想が背景にあったことから、幼児生活団はその後全国各地に設立された。以上のような設 立経緯から、以下2点の考察が得られた。幼児生活団はこれまで、幼児教育の歴史の中では明確な 位置づけがされてこなかったが、その理由はこうした特殊な設置方法によるものと考えられる。ま た、幼児生活団は、やがては全国各地へ広がっていくべき幼児の生活と教育の場として構想され、 その実験的施設としての性質をもっており、狭い意味での自由学園附属の幼児教育機関として限定 されてはいなかった。
  • 村上 民
    生活大学研究
    2015年 1 巻 1 号 8-25
    発行日: 2015年
    公開日: 2016/08/15
    ジャーナル フリー
    自由学園創立者の羽仁もと子、吉一は、1920年代後半から展開していた自由学園卒業生による社会活動(消費組合運動、農村セツルメント運動、工芸研究所等)の発展を背景として、1930 年代、卒業生たちと協働してこれらの活動の再組織化に取り組んだ。羽仁夫妻は、卒業生の組織とその活動を理念的かつ実際的に統合する枠組みとして、「卒業期のない大学、一生勉強の機関としての新しい『大学』組織」1をうちだし、1934 年、「生活大学」と名付けた。これは従来の「学校」や「大学」の常識を大きく越え出ようとする発想だった。新社会建設のビジョンを持つ種々の社会活動——羽仁はこれを「職業」とよんだ——を基礎として、働きつつ、生活しつつ、一生涯かけて学ぶ拠点としての「大学」を、卒業生との協働によってうち建てたのである。当時の自由学園卒業生はまだ女子のみであったから、この「大学」は女性の職業や社会活動、学問、家庭生活などに関わる具体的な提案と実践に関わっていたが、将来的には男子の生き方をも含むものとして考えられていた。生活大学構想と、創設予定の自由学園の男子中等教育(「男子部」)構想とは、ほぼ同時期に発表された。羽仁吉一は、「生活大学」と「男子部」構想をあわせて、日本の中等教育と大学教育の関係を根本的に問い直す「教育改革私案」であると述べている。1930年代に政府・民間双方から盛んに議論されていた教育改革に対する、自由学園としての知見と実践でもあった。1934年に建学した「生活大学」はしかし、その後数年のうちに「大学」の枠組みを失い、卒業生の諸活動の結合体へと戻っていく。戦後、羽仁夫妻は、日本の大学改革案への批評や自由学園大学部の検討過程において、かつての「生活大学」に近い発想を一部提示しつつも、再び「生活大学」の語を持ち出すことはなかった。本稿では、「生活大学」構想の歴史的経緯を把握するともに、この構想がもつ現代的課題を考える。
  • 与謝野晶子と平塚らいてうとの接点
    林 美帆
    生活大学研究
    2017年 3 巻 1 号 1-19
    発行日: 2017年
    公開日: 2017/12/21
    ジャーナル フリー
    日本近代女性史の中で大きく取り上げられる、与謝野晶子と平塚らいてうが中心となって行われた大正期の母性保護論争は、女性が母となることで国家から金銭的援助を得ることの可否を問うものであった。羽仁もと子はこの論争に直接的には関わらず、どちらかの主張を指示する言説は発表していない。しかしながら、羽仁は家計簿をはじめとした家庭論や職業論など、独自の視点を『婦人之友』誌上で展開し、多くの女性の支持を集めていた。本稿では、与謝野と平塚の母性保護論争における主張を整理し、羽仁の家庭論および職業論と対比することで、同時代の女性がおかれている状況を明らかにする。その上、二人と羽仁との共通点および差異を考察し、羽仁が示した解決策の一つが「女性の組織化」であったことを論じる。
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