1921(大正10)年、自由
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創立者の羽仁もと子・吉一は、美術科主任として山本鼎を招聘した。羽仁夫妻と山本との協働をもって始められた自由
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の美術教育は、芸術を特権的なものとせず、誰もが美に対する感覚を養い、自他の生活に活かすことを目指した。多くの芸術家たちの参画によって進められたこの美術教育は、絵画・工芸・鑑賞を構成要素とする芸術教育として展開した。1932年、自由
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卒業生は、
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美術を社会的に発展させ、「工芸」を産業化し社会運動にまで推進するべく、「自由
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工芸研究所」を発足させた。これを機に、自由
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の美術教育は学校内の美術教育にとどまらない、「美術教育運動」としての方向性を明確にし、「工芸」に大きく舵を切り始める。これは、羽仁もと子・吉一と山本鼎が共有していた、芸術、教育、社会改造を深く結び付けようとする志向の延長上に位置する。またこうした方向性は、近代日本の「工芸」をめぐる動きとも重なるものであった。自由
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の工芸推進路線はしかし、単線的に進んだわけではない。1930年代のこうした方向性に対して、「
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美術の危機」とみる批判が美術教師達からあがったことは重要である。彼らは
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美術が一つの方向に収斂しつつあることの問題性を指摘し、美術教育の再構築を図った。こうした緊張感を背景に、自由
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の美術教育運動は「工芸」を時代の課題として選びとり、歩みを進めていった。また、1930年代後半以降の自由
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工芸研究所の海外展開は、日本が国際的孤立を深め、日中戦争、太平洋戦争へと突入していく時期の取り組みだった。この時期の工芸研究所の海外展開と国内展開との関係、また戦時下自由
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における美術教育の取り組みや、新たに参画した若手芸術家たちの招聘事情についても検討を試みる。1930年代から40年代にかけての自由
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の「美術」と「工芸」の展開をたどることを通して、この時代における自由
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の美術教育運動の重層性に迫る。
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