長屋王については,藤原氏との皇位継承をめぐる権力闘争の末に,むなしく敗れ去った悲劇の宰相として描かれる場合が多い。しかし,藤原不比等の後を継いだ長屋王政権が,律令国家体制のもとで,どれだけの政治的実績のあった政権と受け止めるのか,といった政策面での歴史的評価にまで踏み込んだ研究は,意外と少ない。
本稿では,そうした問題を考古学の上から検討するため,多賀城・多賀城廃寺,下野薬師寺,大宰府・筑紫観世音寺、およびそれらと関連した寺院・官衙,さらに諸国国衙,平城宮などの遺跡をとりあげ,それらの新造・改作・造営促進などの年代の検討を行う。そして,これまで個別に研究が進められてきた東北の多賀城,坂東の下野薬師寺,西海道統治の大宰府,諸国国衙などの研究を,初期長屋王政権下で実施された対地方政策と位置付け,その実態をもとに,政策面における同政権の評価を行おうとするものである。
以上のことを検討するにあたり、ここでは、次の3つの視点を用意した。第1点は,最近の多賀城創建年をめぐる研究成果の再確認と大宰府II期政庁の成立時期の分析を行い,両者が養老四年の隼人・蝦夷の反乱を背景に,政府の同時政策によって成立した新たな地方統治機関であったことを明らかにする。その際,一般の長舎型国庁の成立問題についても触れる。第2点として,日本三戒壇の一つである下野薬師寺が
官寺
に列した時期の検討を行い,多賀城廃寺・筑紫観世音寺などの地方
官寺
の整備とともに,寺院併合令を背景とした氏寺対策とが,同時政策として実施されたことを確認する。さらに第3点目として,そうした地方官衙・寺院の整備は,直接的には,隼人・蝦夷の反乱による辺境対策に端を発するものであるが,その時に同政権のかかげた政治目標は,単なる辺境対策にとどまったのではなく,国衙機構の整備を含め全国規模で展開したことを予察する。その政策は,藤原不比等の後を継いだ長屋王政権下で行われたが,同政権が地方統治機関としての官衙・
官寺
の整備を大きく前進させ,中央集権的国家体制を実質的に確立したことを評価する。
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