(1) 邑鑑によると, 信夫郡大森村の大森城およびその侍屋敷は高を請けたが, 信夫郡福島村の福島城とその侍屋敷は高を請けなかった。これらの事実は大森城が廃城であり, 他方福島城とその侍屋敷は除地 (免税地) として扱われたことを示す。
(2) 長井郡の米沢城とその侍屋敷は, 伊達政宗が1591 (天正19) 年9月23日, 米沢を去ってから, 蒲生四郎兵衛が1591年10月中旬米沢に到着するまでの間の検地で高を請けた。
(3) 長井郡における太閤検地は1591年9月に実施されたことはすでに立証されている。邑鑑における村高は文禄3年に実施された検地の結果ではなく, また1597 (慶長2) 年以降の検地による高でもない。それは正しく1591年の検地で得られた結果である。
(4) 1592年5月から6月に, 家数人数等改 (家数人数調査) が伊達政宗領内で実施された。それは唐入 (支那征伐) のために豊臣秀吉の指令によって実施された。それゆえ, 蒲生氏所領でもこの調査が実施されるのは, 当然である。
(5) 検断, 肝煎および小走を含む邑鑑の大森における家数は, 1591年秋, 大森城が廃城となって間もない時の調査であることを示す。なんとなれば, 町の所在を示す検断の存在と, 他の村に比し大森村の村役人の数が多いこととが, 城下町が廃止された直後の状態を示す名残りと見なされるからである。
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