研究背景・目的 農業構造,すなわち「農業生産を誰が担うのか」という問いは,地理学と農業経済学の双方で,特定の時期・地域に即して論じられてきた.うち農業経済学では,農業構造を規定要因とともに論じる姿勢が強く,その中で今日まで支持されている議論は,「農業構造の大枠は地域労働市場が規定し,その態様は地帯構成別に類型化しうる」というものである(「地域労働市場基底説」,山崎(2022)).この方法論的立場は,2011年に発生した福島第一原発事故の被災地の,今後の農業構造を論じる際にも適用されている.野中(2018)は,原発被災地の一地区において震災前からの営農農家を対象に,避難指示解除前に営農意向調査を行い,将来の顕著な離農傾向を認めた.その背景に,現世帯主世代が稼得してきた相対的に高い賃金水準および共働きの標準化,それに伴う農業所得の重要度低下を挙げている.ただし野中(2018)が,地区出身農家の将来意向に基づく推論である点には,注意が必要である.実際の営農再開場面では,その後の諸環境変化や地区外の経営体の参入など,ここに想定されていない現象が起こる可能性もあり,新たに検討する意義がある. 本研究は福島県双葉郡富岡町を対象に,これまでほとんど調査されていない原発被災地の営農再開過程の農業構造を,地域労働市場基底説に立ちながら実証的に明らかにする.震災によって同町は全域が帰還困難区域に指定され,大部分の地域でそれが解除されたのは2017年であった.福島県農業振興課(2022)によると2021年度末時点の営農再開率は面積ベースで13.8%であり,担い手不足や耕作放棄地への対応が深刻な問題となっている.
研究方法 2021年4月時点に町内で営農する農家・組織全26に聞き取り調査を申し込み,16の協力を得た.うち15については2021年7月〜2022年9月に訪問での調査を行い,うち1については書面での回答を得た.さらに地域労働市場の状況,とりわけ賃金水準については,「ハローワーク富岡」の双葉郡内求人資料を収集し分析した.
結果・考察 富岡町の農業経営体には,以下の大きく4つの形態が存在した. 1)土地利用型個別農家:震災前同様,土地利用型作物を生産する個別経営.農外収入と農業所得の合算ないしは農業所得のみで生活するため,農業においても収益性には敏感に反応する.風評被害への懸念や有利な助成金体系を勘案し,稲作からの転換も一部で進んでいる. 2)リタイア世代:主として60歳以上の者が,住環境のための農地保全や地元への愛着から,組織を結成して農作業にあたる.その報酬は単純労働賃金(他所得の合算なく成人1人が生活できる水準)に遠く及ばない.これは,彼らが震災前に安定した農外就業をしており,現在も農業所得が彼らにとって重要度が低い中で,成立している. 3)労働集約型農家・組織:震災による風評被害を避け,かつ充実した補助金体系を利用しうるとして,高収益作物の生産に挑戦している.まとまった資本投下が必要であるため,他産業からの参入例も目立つ. 4)町外からの参入:不耕作の,かつ地代の下落した,まとまった農地の出現を前に,町外から土地利用型法人が参入している.うち1つは町内で最大規模の面積に達し,今後も拡大意向を持つ. さて,農業所得の重要性やその要求水準に関わる,農外の賃金水準であるが,分析より同地域の単純労働賃金は,年間180~220万円程度と推定された.町内の兼業農家には,震災前も現在もこの水準以下の農外賃金での雇用は見られない.つまり同地域は,兼業農家にとっては農業所得の重要度が低く,一方農業者として純化するなら,他産業並に高水準の農業所得を期待する地域であった. 以上より調査地域の地域労働市場と農業は,次のように関連づけられる.農外での賃金水準は,農業所得の合算を必要としない程度に上昇していた.震災前から変わらないこの構造は,原発建設・稼働がもたらしたものと推察される.こうした地域労働市場のもとで,営農は以下のような背景のもとで実践されていた.①:農業で,農外賃金並みの農業所得を期待する(広大な面積での土地利用型作物生産,あるいは収益性の高い作物生産),②:原発経済により過去に十分な蓄積を果たし,新たな追加的農業所得には期待せずに行う,③:①②に収斂できない,地元への愛着を理由とする.
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