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クエリ検索: "山本敦久"
60件中 1-20の結果を表示しています
  • ゲットー化するスポーツと沈黙する身体
    山本 敦久
    年報カルチュラル・スタディーズ
    2021年 9 巻 25-42
    発行日: 2021/06/30
    公開日: 2023/07/20
    ジャーナル フリー
  • 山本 敦久
    スポーツとジェンダー研究
    2018年 16 巻 87-88
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/29
    ジャーナル オープンアクセス
  • ――時間・空間・領域―― ――2022年度秋季学術大会シンポジウム――
    和田 崇, 呉羽 正昭
    地理科学
    2023年 78 巻 3 号 99-102
    発行日: 2023/09/28
    公開日: 2023/10/06
    ジャーナル 認証あり
  • 成瀬 厚
    地理学評論 Series A
    2021年 94 巻 1 号 35-36
    発行日: 2021/01/01
    公開日: 2023/02/19
    ジャーナル フリー
  • 有元 健
    スポーツ社会学研究
    2016年 24 巻 1 号 3-6
    発行日: 2016/03/25
    公開日: 2017/03/24
    ジャーナル フリー
  • ワールドベースボールクラシック2023に関する新聞報道に着目して
    笹生 心太
    体育学研究
    2023年 68 巻 625-641
    発行日: 2023年
    公開日: 2023/12/06
    [早期公開] 公開日: 2023/10/25
    ジャーナル フリー
     From a constructionist perspective, this study analysed the extent to which sports coverage arouses public identity of belonging to a specific nation, focusing specifically on newspaper coverage of the 2023 World Baseball Classic in Japan, and clarified the type of ‘discourses of nationalism’ were evoked in the coverage. Three types of nationalistic discourse were identified: those centered around ‘us’ (1), discussions concerning the ‘other’ (2), and dialogues involving the ‘internal other’ (3).
     First, regarding (1) the ‘us’ discourse, we focused on comments about the style of play of Japanese players and the Japanese national team, which was dominated by the term ‘small baseball’ prior to the WBC 2023. ‘Small baseball’ is an offensive style of play based on the assumption that Japanese players are physically weak and that they score runs by hitting singles and aggressive base running rather than hitting home runs. As the tournament progressed, however, commentary on ‘small baseball’ diminished and the ‘power’ of the Japanese players was emphasised instead. At the same time, ‘togetherness’ was emphasised, and many episodes reinforcing this were reported.
     Next, with regard to (2) the ‘other’ discourse, we looked for comments that stereotyped the opposing nation. However, we did not find symbolic boundary-drawing expressions of self and other, or overtly hateful expressions towards the ‘other’, as is the case in British newspapers. However, this does not mean that there was no bias against the ‘other’ in the Japanese press. Japanese coverage of the WBC 2023 easily stereotyped certain nations by bringing in characteristics of other sports, and naively stereotyped nations such as Italy and Mexico based on the very broad regional characteristics of Latin culture. Such stereotypical commentary was more common in the sports press than in the general press.
     Finally, with regard to (3) the ‘inner other’ discourse, we focused on the representation of Lars Nootbaar, who was selected for the Japanese national team for the WBC 2023. Before and during the tournament, his dedication, courage and ‘uniquely Japanese’ style of play, as well as his attempts to assimilate into Japanese culture in various aspects, were positively reported. Such commentary was intended to underline his moral qualifications for the national team, and the term ‘samurai’ was used to bestow upon him a symbol of approval.
  • 笹生 心太
    年報社会学論集
    2021年 2021 巻 34 号 84-95
    発行日: 2021/07/31
    公開日: 2022/08/31
    ジャーナル フリー

    National stereotypes found in Japanese sports media coverage are examined in this study. In the English-speaking world, there are international comparative studies on national stereotypes found in sports. However, no such empirical studies have been conducted in Japan. We therefore conducted the following two analyses of the national stereotypes found in Japanese football magazines. First, we quantitatively analyzed the distribution of stereotypes related to the nationality or playing style of national teams. As a result, we found four patterns: solid defense and counterattack; brilliant technique; great physical abilities; and mental toughness and physical abilities. Second, focusing on African national teams, we found that these teams are often evaluated as having high physical abilities but poor organizational strength.

  • ―千葉県長生郡一宮町の事例から―
    宮澤 優士
    スポーツ社会学研究
    2023年 31 巻 1 号 101-115
    発行日: 2023/03/30
    公開日: 2023/04/26
    ジャーナル フリー
     逃避的で抵抗的な文化として特徴があるサーフィン文化において、文化の担い手であるサーファーは積極的に社会運動を展開し、社会変革を試みてきた。
     しかし、こうしたサーファーによる社会運動をめぐって、当該地域において対立がみられる場合がある。それでは、サーファーによって環境保全が訴えられたときに、サーファーと関係者間において対立が生まれるとするならば、それは何に由来し、どのような論理の相違からなるものなのか。
     本稿では、サーファーによる環境保全運動をめぐって、サーファーと地域住民や専門家との間でどのような議論が交わされ、どのような結果に至ったのかを探り、サーファー自身による運動の困難性と可能性を示す。その際、千葉県長生郡一宮町を事例地とし、サーファーによる署名運動がきっかけとなって開催された「一宮の魅力ある海岸づくり会議」を取り上げる。
     サーファーによる社会運動の分析から導出されるのは、サーファーが地域における環境保全を訴えるときに発生する困難性である。サーファーは、自らのサーフィン経験を契機とし環境保全運動を展開するものの、サーフィン文化が抵抗文化と接続してきた歴史的背景、そして海への没入がもたらす身体感覚からなる経験知によって、地域住民や専門的知識とは二重にずれたところに位置づけられている。こうして、サーファーはずれたところへ位置づけられることによって、地元住民や専門家から主張が聞き入れられ難い存在となった。
     加えて、「遊び」による身体経験を契機としたサーファーによる社会運動によって、専門家の知見が更新される可能性も確認できる。本稿は、サーファーが自らの身体経験を契機とした社会運動を展開したときに見られる、サーファーが抱える困難性と、揺れ動く科学知に関わりうる可能性を明らかにしたことに意義がある。
  • *相島 葉月
    日本文化人類学会研究大会発表要旨集
    2021年 2021 巻
    発行日: 2021年
    公開日: 2021/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    本発表は、エジプトの首都カイロの空手家コミュニティで行った民族誌的調査より、ネオリベラルな日常を生きる都市中流層の身体文化を、ポスト・スポーツの枠組みから論じる。伝統空手道協会は新しい社会秩序もたらすことを目指した空手家によって2011年に設立された。空手道の情操教育的な側面を強調し生涯スポーツとして再定義しようとする言説は、スポーツの近代主義的イデオロギーを乗り越える試みとしてとらえることができる。
  • ―都市(再) 開発の様相に関するメモランダム―
    大城 直樹
    経済地理学年報
    2020年 66 巻 1 号 49-59
    発行日: 2020/03/30
    公開日: 2021/03/30
    ジャーナル フリー

        本稿では,東京で行われた(る) 二つのオリンピック大会に関連した都市(再) 開発の様相の異同について簡単な検討を行った.1964年と2020年の間には大きな差異が存在する.一言で言うならば,後者におけるイベント自体の商業化の進展と公的空間の大規模な再開発にともなう収益装置化,つまり公的空間の価値の使用価値から交換価値への転換に他ならない.都心部のみならず沿岸部の埋め立て地でも同様のことは行われている.他方,1964大会の特徴は,東京都心部の諸インフラの大々的な改造・建造であるが,事業は1960年代の高度経済成長期の状況ににわかに対応させたものであったため,今日では,諸々の建造環境が逆に都市成長の桎梏となり果てている.また,都市表象ないしは景観表象についても,衛生観念と結びついて,美化キャンペーンのもとで,ゴミやポスター,汚水・下水の不可視化が徹底された結果,人々の意識を大きく変容させることとなった.

  • 有元 健
    スポーツ社会学研究
    2018年 26 巻 1 号 3-4
    発行日: 2018/03/30
    公開日: 2019/03/30
    ジャーナル フリー
  • ポストコロナ時代の政治・メディア・資本主義の連関に ついての試論
    水嶋 一憲
    年報カルチュラル・スタディーズ
    2021年 9 巻 5-23
    発行日: 2021/06/30
    公開日: 2023/07/20
    ジャーナル フリー
  • 石田 智佳
    スポーツ社会学研究
    2020年 28 巻 2 号 57-72
    発行日: 2020/09/30
    公開日: 2020/10/15
    ジャーナル フリー
     近年、五輪などのメガ・スポーツイベント開催を契機とした都市開発は、スタジアムや競技関係地区周辺部で暮らす地域住民の立ち退きを引き起こしている。日本においても、2020年東京五輪開催のための新国立競技場開発により、近隣のTアパートで暮らしていた住民が立ち退かされている事実が報告されている。本稿はこうした立ち退きを迫られた住民たちに着目し、彼らがどのように立ち退きを考え対応しているのか、彼らの暮らしの内実から立ち退きの実践過程を明らかにするものである。
     事例として東京都新宿区のTアパートを取り上げた。そして、住民の生活実態と地域住民組織である町内会と老人会の活動に焦点を当て、1年間のフィールドワークを行った。調査によって明らかになったのは、第一に、住民たちは「高齢者」として暮らすなかで、「支え合い」という関係性を軸に生活していたこと。第二に、この関係性が失われていくなかで、住民たちは町内会や老人会という地域住民組織を通じて、それぞれが立ち退きに対して活動し合っていたことである。彼らは、立ち退きに対し反対を示しつつも高齢者である自身の生活と今後の立ち退きを、各々の会の活動を経ながら考え合っていた。
     住民たちの生活と立ち退きという問題は、切り離して考えることはできない。なぜなら住民は、自らの生活の立て直しを迫られる中で立ち退きを考えていかなくてはならないからである。Tアパート住民の地域住民組織を通じた活動は、立ち退きを強いられる先に潜む「再定住」という課題を浮き彫りにしていた。最後に本稿は、彼らの生活や「再定住」という視角から、新たにスポーツイベント政策の議論を展開していく必要性を指摘した。
  • 杉山 和明
    経済地理学年報
    2020年 66 巻 1 号 112-135
    発行日: 2020/03/30
    公開日: 2021/03/30
    ジャーナル フリー

        東京五輪・パラリンピック(東京2020大会) の開催が決定してから,「安全・安心」に関する新たな対策が展開されるようになっている.本研究では,公文書,各種機関・団体・企業の報道資料,新聞・雑誌記事などを用いて,これらの新たな対策を概観しその特徴を明らかにするとともに,高度なセキュリティ対策の進展にともなって生じる問題点を指摘する.
        日本では2000年代以降,「安全・安心」に関する地域の取組のなかでハード面とソフト面がそれぞれ強調されてきた.ソフト面では,警察・関係団体の市民等への歩み寄りと市民等の自主的な参加が強調され,両者の協働が進んでいった.ハード面では,監視カメラの活用のように防犯環境設計に基づいた取組も展開されてきた.東京2020大会の開催決定後,それらの延長線上で,「安全・安心」に関する対策が加速している.これらの対策のなかでも公共空間における監視カメラを用いた防犯対策が著しい進展をみせている.鉄道各社による車両内への監視カメラの設置が進んでおり,2020年には首都圏の主要路線を走るすべての車両に監視カメラが導入されることになる.加えて,技術革新を背景として「カメラシステムの高度化」 が図られ,最先端の群衆行動監視技術を用いた予測警備も検討されるようになっている.
        こうした複合的な「安全・安心」に関する対策は治安維持の方策として効果的であると多くの市民が考えており,東京2020大会が近づくにつれてより高度な監視・管理技術が採用されていくことが予想される.とりわけ,公共空間におけるAI・IoTを用いた行動分析,予測警備を導入した「安全」対策は,運用の仕方によっては監視・管理の極大化につながり,一転して市民的自由を窒息させかえって市民の「安心」を奪うリスクを秘めている.

  • 佐竹 眞明
    平和研究
    2021年 55 巻 21-38
    発行日: 2021年
    公開日: 2023/11/24
    ジャーナル フリー

    Although Japan is becoming multicultural, as is evident in the country’s growing number of foreign migrants; racist policies, and racial slurs persist. Japan had expected to host a large number of foreign visitors during the 2020 Tokyo Olympics and Paralympics. Although these events have been postponed until the summer of 2021, due to the ongoing Coronavirus pandemic, such events allow for reflective inquiry into Japan’s foreign population as it relates to the Japanese sense of national identity.

    In order to participate in the Olympic Games, some mixed-race athletes have relinquished their Japanese nationality and opted for their non-Japanese parent’s nationality. These athletes actively pursue their goals of participating in their own chosen sport. In addition, in recent years, a growing number of foreign migrants have contributed to Japanese sports by becoming professional sumo wrestlers. Finally, this paper explores current Japanese laws and ordinances that restrict and ban the hate speech of the far-right organizations, which target racial minorities. Such proactive laws and ordinances require wider support to eliminate discrimination, thereby putting an end to the structural violence, which surrounds migrant communities.

  • サッカー専門誌に見られるナショナリズム
    笹生 心太
    年報 体育社会学
    2021年 2 巻 77-88
    発行日: 2021年
    公開日: 2021/05/14
    [早期公開] 公開日: 2021/02/12
    ジャーナル フリー
    In this study, we analyze nationalism in the sense of its vague attachment to members of the same nation, also called “cognitive nationalism”. As pointed out in previous studies, the national stereotypes found in sports coverage play important roles in the construction of “cognitive nationalism”. Therefore, in this research, we look at the stereotype that “Japanese players are inferior in “physical ability”” in soccer magazines and analyze it quantitatively and qualitatively.
    The first of the findings of this study is that the popular statement that “Japanese players are inferior in “physical ability”” was rarely seen until the early 1990s. These discourses were for the most part limited to the mid-1990s and early 2000s.
    The second finding is that since the mid-2000s, Japanese players’ evaluation of “physical ability” has been highly consistent. In other words, discourses with the meaning “although Japanese players are inferior in the strength and size of the body, they compensate with superiority in momentum, quickness, and speed” continued to be produced over a long period of time.
    Finally, the third finding of this study is that the consistent evaluation of the “physical ability” of Japanese players was possibly built by the slogan “Japanization of Japanese football” advocated by Ivica Osim, who was assigned to coach the Japanese national team in 2006.
  • 井谷 聡子, 井谷 惠子
    スポーツとジェンダー研究
    2018年 16 巻 48-57
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/29
    ジャーナル オープンアクセス
  • —ある日本プロ野球選手のBlack Lives Matter運動に関するソーシャルメディア投稿を事例に—
    有賀 ゆうアニース
    スポーツ社会学研究
    2023年 31 巻 2 号 93-106
    発行日: 2023年
    公開日: 2023/10/26
    ジャーナル フリー
     近年、ソーシャルメディアの普及を背景として、人種的マイノリティのアスリートによるレイシズムへの抗議が様々な競技で顕在化している。先行研究では、アスリートたちがアスリートとしての立場とアクティビストとしての立場の間でのジレンマに、またときには大規模なバックラッシュやファンとの葛藤に直面することが報告されてきた。本稿では、こうした状況のなかで例外的に反レイシズムに訴えつつ好意的な支持を広く集めたとされる、あるアフリカ系のプロ野球選手のBlack Lives Matter運動に関するTwitterの投稿を事例として取り上げる。人種的マイノリティとしての背景を持つプロアスリートがこうした困難な状況にいかに関与しているのかを分析する。テクスト上の表現を通じて人種や人種主義をめぐるアイデンティティや行為がいかに産出されるのかという視座からその投稿とそれに対するリプライを分析し、以下の知見を得た。彼は人種差別として理解されうる経験を物語りつつ、それが誰かへの非難として受け止められないように自らの物語を慎重にデザインすることで、レイシズムへの抗議とファン、ユーザーとの協調的関係の維持という困難な2つの課題を同時に追求していた。そしてその投稿に対するリプライも、一方では反差別の観点からアスリートへの共感や同調、他方ではスポーツの観点からアスリートへの賛美・応援にそれぞれ分岐することで、アスリートとオーディエンスたちの間で複合的な同調的関係が現出していた。以上の知見は、日本のスポーツ界において人種的マイノリティとしての背景をもつアスリートがいかなる課題に直面し、それを達成しようとしているのかを明らかにしている点で、スポーツ社会学研究へ貢献する。
  • 東京医科歯科大学教養部研究紀要
    2020年 2020 巻 50 号 53-66
    発行日: 2020年
    公開日: 2020/05/09
    研究報告書・技術報告書 オープンアクセス
  • ――アスリートの義足はいかに捉えるべきか?――
    渡 正
    文化人類学研究
    2021年 21 巻 37-53
    発行日: 2021年
    公開日: 2021/01/21
    ジャーナル フリー

     本稿では、オスカー・ピストリウスやマルクス・レームのパラリンピック/オリンピック秩序への挑戦を事例として、それがどのように問題化されていったかを朝日新聞の記事を追った。記事の変化からは、それまで肯定的な評価をされていた義足が、ピストリウスの越境以降、明確に問題含みのものとされていったことや、それが義足の性能とその公平性への問題と矮小化されていったことが判明した。

     このような義足のアスリートを理解するモデルとして、福島真人による身体のモデル1・2を確認した。義足のアスリートの「問題」は近代スポーツの想定する自然な身体=身体0からの「過剰」として捉えることができた。さらにこの問題を乗り越えるモデルとして福島のいうモデル2的な身体、あるいはサイボーグの身体のメタファーを概観した。また、こうしたメタファーが失敗する事例として義手ラケットによるテニス選手を検討した。この事例は、私達が義足に関しては、それを過剰に身体化して議論していることを明らかにしてくれた。

     そこで本稿では障害学/社会学における議論を参照し、スポーツにおける障害者アスリート、あるいは義足のアスリートの排除の位相にいくつかの区別があることを確認した。

     スポーツにまつわる多くの議論は「義足は身体か」という問いをめぐるが、その前提には、義足が身体として捉えられないという想定があった。義足の問題は、「人工物の装置」が「身体」化することで浮かび上がる、身体の内部にある外部=異質性なのではないか。外部と内部のカテゴリーミステイクが、スポーツにおける議論を不明瞭にしている。身体と外部環境との相互作用システムとしてのアスリートという理解は、陸上のような個人競技ではいまだ想像力の埒外にあるものの、チームスポーツにおいては問題なく成立している現実でもある。

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