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クエリ検索: "恵隆寺"
2件中 1-2の結果を表示しています
  • 吉田 博行
    日本考古学
    2004年 11 巻 18 号 195-204
    発行日: 2004/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    城館跡はどのようにして古代から中世へ推移したのか,また古代から連綿と中世に展開していくのか,という問題は城館跡研究において常に取り上げられてきた。
    ここで紹介する陣が峯城跡は近世に会津藩が編さんした『新編会津風土記』にも記載されており,二重に巡る大きな堀跡や越後城氏にまつわる伝承などにより比較的古くから知られていた。しかし,その実態については,ほとんど調査も行われず永らく不明な状態であった。
    近年,ここから多数の貿易陶磁器を採集したことにより重要性が再認識され,本城跡を後世に残す目的で会津坂下町教育委員会は平成14年度から継続して範囲内容確認調査を行っている。調査の結果,本城跡は大きな濠をもち,主殿と考えられる大型掘立柱建物跡や多量の貿易陶磁器・青銅製錘・和鏡などの検出により,ここが12世紀代の会津蜷河荘における拠点的遺跡ではないかと類推された。これまでの研究では,大きな堀を持つ城館跡の多くは軍事的緊張関係の大変強かった東北地方北部地域を中心に分布している。今回この北部地域以外からの発見により,分布域が南端部にまで及んでいることが明らかとなった。しかし,この南部地域でこのように大きな堀を巡らす城館の必要性やその目的については全く不明であり,今後の大きな検討課題である。
    また,文献資料により12世紀代の会津坂下町周辺地域は摂関家領の蜷河荘であることが判明している。そして,ほぼ同時期に建立された薬王寺遺跡などの存在から京風文化を巧みに取り入れていることが確認され,そこには摂関家領を介した京都との強い結びつきが考えられた。
    また,『玉葉』に記載されている「藍津之城」を「陣が峯城跡」に比定する考えもあり,今後は文献史料や地元に残る伝承も交えこのような城館跡の系譜や荘園内での機能を考古学的に研究しなければならないと考える。
    本城跡の解明は単に地域的城館跡の研究にとどまらず,中世移行期の城館跡を考えるうえで大変重要な意味をもつことであろう。
  • 関口 欣也
    日本建築学会論文報告集
    1966年 119 巻 66-76,79
    発行日: 1966/01/30
    公開日: 2017/08/30
    ジャーナル フリー
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