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クエリ検索: "斉藤康彦"
11件中 1-11の結果を表示しています
  • 斉藤 康彦
    情報管理
    2002年 44 巻 12 号 846
    発行日: 2002年
    公開日: 2002/03/01
    ジャーナル フリー
    携帯電話は,画面の大きさに制約があるが,本稿では,小さな領域に多くの情報を盛り込むのではなく,大画面のデスクトップ型のPCと,小画面の携帯電話を使い分けることを提案する。モバイル環境においては,過剰な情報を閲覧しないで済ませられることや,いちべつしただけで内容が理解できることが重要である。このような立場から,多様な色相の多数の画素が織り成すテクスチャの画像を用いて,情報の概略,傾向,特性を把握することを支援する視覚化手法を,携帯電話からの株価情報の閲覧に適用する。これによって,詳細な株価情報を,PCの大画面で閲覧する必要があるかどうかを,携帯電話の小画面において,即時に判断できることを示す。
  • 情報管理
    1998年 41 巻 8 号 657-658
    発行日: 1998年
    公開日: 2001/04/01
    ジャーナル フリー
  • 加賀美 思帆
    日本シルク学会誌
    2006年 15 巻 15-21
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/12/27
    ジャーナル フリー
    小稿の目的は、富士吉田織物産地の戦後展開と今後の方策を解明することである。研究の方法は、先行研究の整理、及び織物協同組合等におけるヒアリングである。考察結果として、戦後展開において4つの画期に大別できる。第1期(昭和30年~45年)は裏地の生産、第2期(昭和46年~55年)は装寝具・着尺地の生産、第3期(昭和56年~平成3年)はネクタイ地の生産、第4期(平成4年~16年)は多品目少量生産の展開、である。最近年における富士吉田織物産地の生産及び流通構造の特徴として、織物関連産業の規模縮小、特に織物業における著しい縮小、機業の零細性、OEMを中心とし直販と観光直売を補助的とする3本の流通経路、である。要するに厳しい環境下における多品目少量生産の展開であった。今後の方策としては、以下の2点が指摘できる。織物関連業者間の連携強化、観光者向けの生糸を素材とする製品開発である。
  • 北村 眞一, 村越 正忠
    日本土木史研究発表会論文集
    1988年 8 巻 47-53
    発行日: 1988/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    甲府市街地の形成の変遷を街路空間と土地利用とに着目して概観し、都市形成の発想、社会や空間構造の変化などを考察した。武田時代から江戸時代へは、武田時代の町人街をとり込みながら、新しい城下町の形成をはかるニュータウン形成であった。江戸時代から明治時代へは市街地の大きな移動はなく武家地の官公庁用地と民間用地への転換が主で、中心部再開発であった。明治36年の中央線の開通は商業・業務の中心核を駅前へ転換し、街路網形成の中心が甲府駅となった。戦後の急成長による人口増加、基盤整備の不足、モータリゼーションは甲府盆地全域へのスプロール的開発による分散化と、幹線街路整備によって対応された。戦前戦後を通して市街地は拡大し、モータリゼーションと住宅地の郊外分散化は商業立地の分散化を促した。
  • 中島 秀之
    人工知能
    1992年 7 巻 2 号 350-352
    発行日: 1992/03/01
    公開日: 2020/09/29
    解説誌・一般情報誌 フリー
  • 鈴木 理彦
    社会経済史学
    2009年 75 巻 4 号 435-452
    発行日: 2009/11/25
    公開日: 2017/05/24
    ジャーナル オープンアクセス
    本稿は,戦間期における工業試験場の活動を産地絹織物業の展開過程のなかに位置づけ,その歴史的役割を検討する。分析対象は山梨県郡内地域であり,山梨県工業試験場とする。郡内絹織物業は,裏地向けの先染織物を主力製品として,多品種少量生産を展開してきた。力織機化をはじめとする機械化,輸出向織物の製織奨励,人絹糸の利用という3つの産地構造の転換のなかで,工業試験場は活発に活動することでその展開を支えていく。とくに,社会的分業が未発達であった郡内絹織物業で,工業試験場は製織の前後工程にあたる準備,整理工程の発展に大きく寄与した。技術革新の進展に対して,民間レベルではキャッチアップしきれない生産工程の一環に携わって産地の社会的分業の一端を担い,その後,民間の工程専門会社の設立に尽力して一貫した生産工程を産地に根付かせる役割を果たした。こうした郡内絹織物業の社会的分業構造と山梨県工業試験場の関係を,織物生産の主な工程に焦点を当てて検討し,工業試験場の果たした役割を考察する。
  • 大井 祥照, 斉藤 康彦, 佐藤 仁孝, 藤田 江美子, 古郡 延子
    情報管理
    2002年 44 巻 10 号 678
    発行日: 2002年
    公開日: 2002/01/01
    ジャーナル フリー
    モバイル端末を利用して双方向にマルチメディア情報をやりとりする社会が到来しようとしている。本特集において,モバイル端末向けのマルチメディア情報について,基礎となる技術,応用が予想される新技術,マルチメディアコンテンツの制作方法,具体的なコンテンツの提案などを3回に分けて考察し提案する。初回では,近未来の社会がどのようなモバイル技術をインフラストラクチャとし,そのうえでどのようなサービスの展開が予想されるかを調査分析する。また,モバイルなマルチメディアサービスの取り組み例を紹介する。
  • 安在 邦夫
    史学雑誌
    1979年 88 巻 5 号 694-698
    発行日: 1979/05/20
    公開日: 2017/10/05
    ジャーナル フリー
  • 堀 雅洋
    人工知能
    1992年 7 巻 2 号 352-356
    発行日: 1992/03/01
    公開日: 2020/09/29
    解説誌・一般情報誌 フリー
  • 史学雑誌
    1977年 86 巻 3 号 341-364
    発行日: 1977/03/20
    公開日: 2017/10/05
    ジャーナル フリー
  • ―神野・富田家と神富殖産の事例から―
    都築 晶
    経営史学
    2011年 46 巻 1 号 1_56-1_71
    発行日: 2011年
    公開日: 2014/09/10
    ジャーナル フリー
    This paper examines the asset management practices of local wealth-holders in the prewar era. Based on the cases of the Kamino and Tomita families in Aichi Prefecture, the analysis is advanced from two perspectives: (1) What kind of asset management were local wealth-holders aiming at ? (2) How was it actually practiced ? This paper analyzes the Kaseiyousoku, the family constitution, of these two families and identifies the asset management methods used. The Kaseiyousoku classified the assets of the two families into two categories: assets jointly owned and managed by the two families and assets individually owned and managed by each family. It seems that such mechanism delineated the action of both families afterwards over a long period of time.
    This paper examines the remunerations of the heads of both families and the activities of Kamitomishokusan, the asset-preserving company for jointly-owned assets, during the relatively long period starting in 1891 to 1945 and clarifies how they were actually undertaken. As a result, the asset management practices of both families, not identified by existing literature, become clear.
    The circumstances faced by both families were taken into consideration as much as possible in the process of analysis. Both families sought and acted to accomplish the asset management system set by family constitution. This paper shows that, as a result, both families were spending their entire efforts only to preserve their assets. This consists one answer to the question posed by previous literature on why the asset-preserving company of both families did not actively invest in stocks.
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