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クエリ検索: "新井明" 英文学者
2件中 1-2の結果を表示しています
  • 生地 竹郎
    英文学研究
    1975年 52 巻 1-2 号 194-198
    発行日: 1975/12/01
    公開日: 2017/04/10
    ジャーナル フリー
  • 生地 竹郎
    比較文学
    1975年 18 巻 150-117
    発行日: 1975/10/31
    公開日: 2017/06/17
    ジャーナル フリー

     叙事詩『失楽園』の作者ジョン・ミルトンと言えば、叙事詩人としてはギリシャのホメーロス、ローマのウェルギリウスに比せられ、宗教詩人としては、カトリックを代表するイタリヤのダンテに対抗して、プロテスタントないしは清教徒を代表する大詩人である。またイギリス文学の領域内では、古来、シェイクスピアに伍し、あるいは少くとも彼に次ぐ詩人としての地位はゆるがなかったと言える。

     ところが、これほどの大詩人ではあるが、わが国への紹介のされ方、わが国の文学に及ぼした影響といぅことになると、きわめて特色ある様相を呈している。一言にして言えば、その原因は、ミルトンが日本人のあいだに、芸術的な共感者を広範囲につくり出せなかったということにあるといえる。おそらくミルトンが踏まえているギリシャ・ラテンの古典やへブライの宗教ないしはキリスト教の素養が平均的日本人には乏しかったこと、ミルトンの宗教思想が十九世紀の西欧唯物思想の洗礼を受けた人々にはなじみがたいものであったことなどがその主要な原因であったのではないかと思われる。それゆえ他の泰西の大文学の紹介導入に比べて、ミルトンの紹介導入が始まる年代はきわめておそい。

     だが、一方で芸術作品として敬遠されたのは事実であるが、その反面、その宗教性ないしは政治性のゆえに、ミルトンの作品を強く愛するという傾向の人が生まれてくる。従って、特に初期においては、その紹介者の中に、プロテスタントの信仰に立つ人、あるいはその影響を受けた人―そういう人は当時政治に関心を持つ場合が多かった―が多いのである。徳富蘇峯とか、内村鑑三門下の藤井武、畔上賢造、矢内原忠雄といった人たち、あるいは帆足理一郎などがミルトン導入に関して果した役割が注目される。

    英文学者
    はといえば、繁野天来をはじめ、クリスチャンではない有力な学者ももちろん存在するけれども、その反面、斎藤勇、竹友藻風、岩橋武夫、平井正穂、越智文雄といったプロテスタントの名がめだつ。若い世代でも代表的な学者の中に、
    新井明
    、藤井治彦、斎藤和明、道家弘一郎の諸氏の名が見える。なお今日ではプロテスタンティズムの信仰とは切り離された政治的・社会科学的関心から、ミルトンの芸術にも関心を抱く人が出始めている。ミルトンの政治思想の中に、今日の問題である民衆の抵抗権や革命権の先駆を見る人たちや、ピューリタン革命のマルキシズム的意義から出発する人たちである。

     もっとも、ミルトンに対する芸術的共感がわが国ではまったく生まれなかったわけではない。飜案としては、島崎藤村の『草枕』(一八九四)や入江花錦の『呪阻の焰』(一九〇五)がある。しかしミルトンの影響下に書かれた創作ということになると、先ず第一に、書斎の人であって文壇とは無縁であった湯浅半月があげられることになる。『十二の石塚』(一八八五)やその改作『古英雄』は、ミルトンの『失楽園』から学んだ叙事詩の作法を踏まえて書いてある。単に着想や思想だけでなく、その叙事詩的表現にもミルトンの模倣と思われる個所がある、『半月集』(一九〇二)所収の『天地初発』にも『神子と魔王』にもミルトンの影響は見られるが、特に後者は、『復楽園』から多大のヒントを得ているものであろう。半月のほかには、これまた文壇とは縁のない無教会主義の布教者藤井武の一万二千九百五十行に及ぶ長詩『羔の婚姻』がミルトンの影響を各所に受けている。だが、この他となると、ミルトンから大きな影響を受けた作品を日本文学からさがし出すことは困難であろう。竹友藻風は薄田泣菫の「葛城の神」や「鶲の歌」に若干の影響を認めてはいるけれども。

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